昨日、家にいるときに外で大きなぶつかる音がした。事故であると理解したが、私は何もしなかった。周囲は、大丈夫か見に行かなくてよいのかと騒いでいた。あなたは何もしないのかと言われた。私は何もしなかった。すると、自分だけ高い意識状態に安らいでいて、傍らでは誰かが苦しんでいるかもしれないのに何もしないのはおかしいと言われた。私はその者に聞いた。神はいま何をしているのかと。神は明らかにこの事故について知っているが、神は何をしているのかと。
神は助けない存在なのだろうか。わざわざ肉体を纏い、肉体で事故現場にかけつけ、一々奇跡的なことをして回るのが神ないしは聖人なのだろうか。この世の現象は事実ではない。人々に起きていることは、私には起きていない。この世が現実だと思っている者が事故現場にかけつけて何ができるのか。救急車を呼ぶことか。いくらかの困難を解除しようと試みることか。なぜ神は事故が起きる前にその事故を許可したのか。霊的な意識とは、仏教が言うように、胎蔵的なものである。世界を我が内に飲み込んでいる。痛みや苦しみを和らげようと試みることは良いことだが、我々が知るべきことは、すべての完全性であり、事故にさえ神を見ることである。情緒や感情に生きている者は事故を知って波動を乱す。事故現場に行くよりも、そのような者の波動を落ち着かせることのほうが先に重要である。一切乱れぬ者だけがすべてに神を知る。分離している者だけが神が分からず、おのれが分からず、ゆえに他人が存在し、世界の中の自分が個別に存在し、現象という映像にかまけて、その背後の神を見ることは決してない。事故現場にかけつける者、救急車を呼ぶ者、何かに突っ込んだバイクの者を介護すること、あるいは介護されること、すべてを可能にしているのは神の力である。事故を起こしたことすら神の力であることが分からぬのだろうか。世界の背後で世界を可能にし、世界を運営しているのは世界の主である。彼は馬鹿ではない。彼は賢い。
情緒や感情から自由でなければ、我々は無能である。騒ぎ立てて何になるのか。私は一ミリも心揺らぐことがない。それは偽りを偽りとして見ており、その背後の我すなわち神我を知るゆえである。このとき、すべては完全であることが知られる。場合によっては私であると人々が思っている肉体が何らかの行為をしたかもしれないが、真我からすれば、そのような現象的な話と「わたしじしん」は無関係である。すべては、人々が何をもって現実とみなしているかによる。この世の人類の意識においては、本物が知られていないゆえ、人々は偽物を通して本物を学んでいる最中である。理解不能かもしれないが、神は、この世の現象に対して完全に無関心である。弟子やイニシエートでなければこの意味は分からない。個人意識に生きる者は分離しており、胎蔵しておらず、夢の背後の実在、映像の背後の真理、危険の背後の安全、一時性の背後の大団円について知ることはない。視点が永遠からのものではないのである。
神は助けないのか。このような問いを発する人々は、自分と神が別であると思っている。そのような意識に合わせて答えると、神は常に助けようとしている。誰よりも不眠不休で助けようとしている。舞台裏から。表に仮の衣装であえて出てきて奇跡を起こしまくる肉体として働くことは滅多にない。
助けにならない助けを行う者は無知である。永遠の視点が欠けている場合、一時的な混乱に混乱させられるだろう。一時的な見た目上の恐ろしき様に、恐ろしさを見るであろう。決してそこに神を見ないであろう。それは真我を実現していないからである。神我として、その永久に安全な真理の高台から、世界という夢を胎蔵していないからである。個人の視点と神の視点は異なるものである。個人が自我を神に明け渡した後、世界の主は賢く、誰よりも愛であり慈悲であり、個人にとっては艱難辛苦である一時的な現象を通して、必ず真の定めである真我の認識へと導く力を通して働いていることが知られるだろう。誰であれ人生で苦労するが、賢き者ほど、その苦労があったからこそ良きものに導かれたことを知っている。二度と体験したいとは思わないであろうが、その苦しみがなければ完成は訪れなかったことを認めている。神が間違うことがないことを知る賢き者は、ゆえに、安易に裁かない。
神が助けようとしていることが分からないのはなぜか。何に苦しんでいようが、必ず神はそこから救い出してくれる。しかし、神を見ず、本物ではなく偽物ばかり見ている者に、どのようにして神が働きかけることができるであろうか。左を見る者にどうして右が見えるであろうか。神を知らぬ者とは、神を知ろうとしてこなかった者である。とはいえ、私も特段、神を知ろうとしてはこなかった。言い方の問題である。何が本物か、何が真実か、なぜ生きているのか、生とは何か、つまり私とは何かについて知ろうとしてこなかったという意味である。偽に気づき、偽の背後の本物を知るべく、外の世界でも頭の世界でもなく、それらを放棄して、「わたしじしん」を追求してこなかったがゆえ、我々は神から助けられていないと錯覚している。しばらく瞑想するならば、神と繋がるだろう。人間にとっての神とは魂である。魂が真の先生である。魂を介して神は我々を助ける。
たとえば、何かで苦しいとしよう。先生である魂に意識を整列させ、先生にだけ従い、そうすることで先生の意識に入るならば、苦しんでいた人間の意識はその苦しみを知覚することが不可能である。存在するのは愛、喜び、至福である。ゆえに、すべての苦痛や錯覚の源はおのれの馬鹿さにあったことを知る。馬鹿とは、頭がいいことである。私が最初に魂や霊的な存在を知ったとき、白痴かと思った。人間の頭や知性からすれば、それは人格でも何かしらの関心を有する者でもないため、馬鹿に見える。この無知を乗り越えたとき、頭の方が馬鹿だったことを知るのである。だから、この世ばかり見ている者は、神が何もしないと言う。神は絶対に助けないし、事実、助けられたことがないから、神は存在しないと言う。ゆえに、昨日の事故のときもそうだが、私が問題視したのは、事故ではなく、事故という現象を見て騒いだ者の波動である。その者が落ち着くことの方が、事故現場に行くことより遥かに重要であることを知ってもらいたいと思ったが、本物に生きてこなかった者にそれを要求できはしないのである。彼らにとっての本物や現実は、私にとっては偽物であり幻である。それは、彼らが目に見えるものや、感覚知覚や、それを可能にする頭に生きているからであり、マインドを通して物事を解釈しているからであり、しかし私はそれらを拒否している。神がそうであるように、頭が作り出す錯覚に関わるのではなく、錯覚の背後の実在に絶えず喜んでいる。事故や怪我の苦しみは理解できるが、私は感傷を乗り越え、ただ観照している。ただ存在している。なぜなら、私は生命だからである。頭ではない。
神と自分が別の存在だと錯覚している頭に対して、私は徹底して、神は助けると断言する。それどころか、神しか助けることは不可能であると言い切る。助けとは、一切が調和した意識状態であり、いかなる二元も存在せぬゆえ、それだけが完全なのである。戦争を助けるのは平和である。自我を助けるのは真我である。世界を助けるのは神である。しかし、我々の本質と神とは決して別のものではない。
神が常に助けていることを知る者だけが、本当の賛美歌を歌うことができる。本当に神が素晴らしいこと、美しいことを、我として知り、喜び、全身全霊をもってして賛美せざるをえない。この世では醜いことがあるかもしれないが、この世を胎蔵し、一時的なものではなく永遠へと一致調和し、時空間が消え去った後の本物、真の根源を我であると理解するならば、頭が作り上げた話はすべて消え去る。だから、いま自我意識に苦しむ者も、瞑想に邁進し、真の自己を見出すことだけを先決するという当たり前の目的に目覚めねばならない。それ以外の目的を達成しても死んで持っては帰れぬ。死ぬものや無くなるものに生きて何の価値があるだろうか。本物のみが重要である。偽物は苦しみと不幸しか我々にもたらさない。本物つまり人々が神と呼ぶ力だけが救世主であり、真に何もかもを助けることが可能な力である。たとえばヒーリングとか霊的治療などを可能にする力もこの力である。だから真の治療家で、自分が治療していると考えている者は一人もいない。自分が経路にしかすぎぬことを理解していない者は決して真に治療できない。純粋な媒体は、常に神の生命と力を理解し、神の意志を決して歪曲することなく、滞りのないようエネルギーを循環させるという役割に喜んでいるだけである。自分を治療家だと称する者は、常に偽者である。本物を知らないのである。本物を知る者は、常に助けているのは神であることを理解し、感謝し、平れ伏さんばかりに喜ぶものである。このようにして愛は循環する。
神の助けがない者とは、神の方を向いていない者である。瞑想でこの意味を知らねばならぬ。頭で外を眺めるのではなく、頭を放棄して、我が内に、つまり我そのものが神であり神の生命であるという意識に至らねばならぬ。このとき初めて、神が助けていることを知るだろう。頭では分からないが、頭を放棄した者、マインドを乗り越えた者だけが賢さに出会うであろう。すると生は楽なものになる。楽勝とは楽生である。生は常に勝であり、霊が統御できぬものはひとつも存在しない。これが極楽である。浄土すなわち物質や諸体を清めた者だけが極楽が何であるかを必然として知る。神の臨在を知り、神との一体へと導かれ、その本質が愛であることの美しさ素晴らしさに平れ伏す。
瞑想するまで、私は「神」という言葉を使ったこともなく、使うような者の馬鹿さを鼻で笑うような者だった。いまは見事に平れ伏している。喜んで改心させてもらった。喜んで心を改めました。神という概念は頭のものだが、それが指し示す本物は言葉にならない。一神の至福は描写不能である。ならば描写する必要はないのだから、つまり頭の言葉を使って表現する必要はないのだから、直接、瞑想を通して神という概念が指し示す本質に、真我なるものが意味する我へ、魂という先生を通して、先生にのみ従うことを通して、到達してもらいたい。寝ても覚めてもではなく、寝ずに神を求めるくらいでなければならぬ。前の記事の流れで問われたことを最後に書くが、私は六時間とか七時間とか、ぶっ続けで寝たことがなかった。夢レベルの睡眠に落ちたらすぐに瞑想。睡眠よりも常に瞑想を優先してきたと話したら、その者はいささか圧倒されていた。それは無知だからである。実情を話すと、夢は苦痛である。私はそのようなマインドが統御されていない夢、あるいは気づきを伴わない夢の苦痛に耐えられないから、夢見の睡眠よりも瞑想を選び生きてきただけであり、実際に私が行ったのは、苦痛よりも至福を選択したということだけである。ひたすらに楽な方を選んだだけである。睡眠のほとんどが惰眠である。そのいらない部分を貪るような苦痛は耐えられない。寝ても覚めてもではなく、寝ていても神である。これくらい求められるようになってもらいたい。これくらい錯覚ではなく神の方を向いてもらいたい。神に向き直る者を、どうして神が無視するであろうか。神が抱きしめてくれるであろう。これが放蕩息子の帰還である。
