禁欲は欲望、瞑想は無欲

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個人の視点の回避

学ぶ人々が把握しなければならない一つの点は、このアンターカラナは意識そのものにおける意識的な努力を通して構築されるのであって、単に善良になろう、善意を表現しよう、無私無欲という特質と高い熱誠を表そうと試みることによって構築されるのではないということである。多くの秘教徒は、道を辿るということは、低位性質を克服し、正しい生活と思考、愛と知的な理解という観点から生命を表現しようと意識的に努力することと考えているようである。それはそうであるが、それ以上のものである。善良な性格と善良な霊的熱誠は基本的な不可欠要素である。しかし……それらの基礎と、それらを認識して発達させることは見習いの道での目標である。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション下」p.63

朗読動画の視聴回数を見ると、ニサルガダッタ・マハラジが禁欲について語る動画がほぼ最新のものであるにも関わらず、最も視聴されていることに気づく。これは、明確にパーソナリティー的な視点の表れであり、行為に取り憑かれた個人の苦しみやもがきを連想させる。しかし、この種の関心は障害にしかならない。マハラジは禁欲について、「体験し学んだ後に再び通らないこと」「不必要なことを避けること」「快楽や苦痛を期待しないこと」「常に物事を制御すること」と述べている。しかしここで重要なのは、「それはそうであるが、それ以上のものがある」という視点である。なぜなら、我々は自我ではなく魂を扱おうとしているからである。

行為とは欲望である

マハラジは続けて、「欲望自体は悪いものではない」と述べる。ここに核心がある。禁欲という概念は、「欲望が悪いものである」という決めつけを含むが、その前提が余計なのだ。それは個人的な解釈にすぎない。現代の認知心理学ですら、「ある思考を抑制しようとすると、かえってその思考が強化される(シロクマ効果)」を証明している。禁欲は、むしろ欲望を増幅させるのである。

最も賢明な対処法は、本物だけが偽物を追い散らすという根本的真理を思い出し、魂を見出すこと、魂との融合に専念すること、その結果として個人の欲望を自然に魂の欲望つまり奉仕したいという欲望に置き換えることである。こうして勝手に低次の欲望は消える。

禁欲は抑え込む行為である。魂に由来する欲望に対する無関心は、それ自体を餓死させる。そもそも、「誰の欲望なのか?」—— あなたと欲望は関係していない。この認識が出発点である。個人的な視点で欲望を扱おうとする限り、「それ以上のもの」の認識は曇り、遠ざかる。「私の欲望」という想念自体が錯覚である。「私」と「欲望」は同じものである。よって「欲望」に働きかける力が「私」の力であるはずがなく、それ以上の力であることをまず認識すべきなのである。

瞑想者は、いかなる「しようとすること」からも自由でなければならない。パーソナリティーは「何をすべきか?」と問うだろうが、これは「何かをしたい」だけである。 これはマハラジが言う「知識と体験の中に成長しようとする衝動」であり、欲望の領域に属する。 この衝動が静かにならなければならない。

行為と存在の違い

瞑想の本質は、「する」と「在る」の違いを明確にし、個人と魂の意識を逆転させることである。科学的な比喩を用いるなら、「する」は局所的なエネルギー交換のプロセスであり、「在る」はエネルギー場そのものである。電子が「移動」するのではなく、場の中で「存在」しているように、魂の認識とは、個の行為ではなく、場の認識への変容である。これはアンターカラナの前半に関わる話であり、その後、魂意識が常態となれば、意識の焦点は霊的トライアドへと向かう。ここに至れば、もはや魂の波動ではなく、トライアドの波動との融合が目標となる。

イニシエートが意識ではなく意志と関わるようになるのはこの段階である。川は自ら流れようと努力しない。ただ、流れることである。川が流れようとする努力をやめ、ただ「流れ」そのものとなることである。 個人は流れに抗い、「自由意志」を神聖化するが、魂と融合すれば、個人の意志なきところに残るのは、純粋な流れ、すなわち純粋な意志だけである。 この意志に対する直観的な思索が、神の計画、生命の目的、存在の原因といった本質的な啓示をもたらすのである。

第三イニシエーションに先立つマインドの三つの活動

媒介(必要な力)イニシエーション方法状態
肉体の変性具体マインド第一自由意志と努力する
情緒体の変質第二魂意識の発達在る
パーソナリティーの変容抽象マインドを通したトライアド第三霊的意志超越

したがって、魂への接近を阻むものは、「する」つまり「したい」という欲望意志である。さらに言えば、これはアストラル界のフォースでしかない。このフォースの条件づけから解放するのは、魂の光=知恵と啓示であり、それが「する」の否定へと導き、「在る」を体験させる。 これは融合の初期にすぎないが、個人の意識と考え方を根底から変革するものである。彼はもはや何もしなくなる——これは観察ではなく、観照への転換点である。

ここで冒頭の引用に戻る。

このアンターカラナは意識そのものにおける意識的な努力を通して構築されるのであって……

これは個人の努力ではなく、個人の意志とも関係がない。 魂の意志様相と関係し、それを遡ればアートマの霊的意志にたどり着く。キリストは魂原理の体現者として、愛(第二様相)を説いた。しかし、魂との融合(アンターカラナの前半)が完了すれば、もはや愛や喜びといった意識の様相ではなく、魂を通して上から働く意志そのもの(第一様相)との融合がより意義を持つようになる。ラマナ・マハルシが「それが訪れたならば、それが後の面倒はすべて見る」と言ったとき、彼が指し示していたのはこの根本的な意志である。この意志を通して、生命の目的や神の計画と一体化することが可能となる。

だから、次の時代の教師は「愛」ではなく「意志」を教えることになると覚者は言うが、そのような時代を先取りするのが瞑想者である。人類の焦点は外の世界の行為に向けられている。しかし、意志とは「結果の世界」ではなく「原因の世界」を支配する原理であり、「在り方の正しさ」を教えるものである。波の形を変えようとするのではなく、海の深みに意識を向けることが本質である。意志とは、その深みから生じる力であり、表面の波を整えることではない。意志とは、個人が持つものではなく、個人に関して言えば、個人を最終的に破壊する力のことであり、神的な人間の顕現の根底に宿るものである。

何が本質なのか

禁欲することは、個人的な霊的目的へと前進している感覚を自我にもたらすため満足するものかもしれない。しかし、魂は全く禁欲に興味を持っておらず、そのような個人の動きを傍観しているだけである。魂自体が本質的に媒体であり、それ自体は「白痴」のようなものである。これはあらゆる意識拡大に伴うショックの一つである。それは偉大とされたものが本質ではないという認識の成長である。

「する」ことしかできない時期はある。瞑想はここから始まるが、「する」が「したい」という欲求にすぎないことを理解し、それを観察か傍観の対象に移行させ、その「したい」という感覚が何なのかを見ることが重要である。言い換えると、人類は触覚と関与しているが、魂は視覚と関わっている。アストラル界は触覚の世界であり、メンタル界は視覚の世界である。見ることで高位のエネルギーは低位のフォースに衝撃を与え変質させる。これが内観の本質であり、それが結局のところ、見る者も見られるものもない世界つまり思考のない至高意識へ導くのである。

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