なぜなら、自己意識は徐々に移行してゆき、ついには小さな自我を超えた彼方にある「それ」に中心が定まるからである。……あなたは自分自身に「私は誰か」と尋ねなければならない。この探究が、最終的にはあなたの心の背後にあるそれの発見に導くだろう。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.107
真我と接触し共存している意識が「私は誰か」とは問わない。真我であることが分かりきった意識は真我に没頭しており、生命力を持つ残りの障害(ヴァーサナー)を調整するその自動作用にただ安らいでいる。この段階で瞑想者は、自我が破壊されるまで、多少の方向づけは存在しても、本質的に自我のどのような努力にも関与しない。よって「私は誰か」は、内なる実在の感覚に接触するまでの自我の試みである。ラマナ・マハルシは、沈黙の教えを理解できない初心者(それは自我のことである)にこれを仕方なく言語で教えた。もし瞑想者が静かであれば、マハルシに近づいただけでその霊的な効力を知覚し、抗うこともならず、質問に無意味なフォースを消費せず、ただマハルシの影響範囲で真我に集中しただろう。そのような弟子は、「私は誰か」と問わず、真我の感覚を強大なものにするマハルシのサットサンの威力を重視したはずである。静かでない弟子は内的な効力を知覚できないため、諸体にその準備を整えさせる方向性を「私は誰か」で観念として得て、ある者はその意味を理解して存在の感覚と接触することに成功し、ある者は遅々たる進歩に我慢もならず悟りという自我の欲望と想像に翻弄され続けただろう。静かであれば真我つまり(この段階では)魂の存在とその導く波動を知覚できるのに、悟りや解脱への欲望に執着することで騒音に苦しむのである。そういうときこそ、「執着しているのは誰か」と問われねばならない。あらゆる自我の知識や信念が真我とは純然に無関係であることを自我は理解する必要がある。この外の私的な想像物へと向かう傾向を阻むのが「私は誰か」であり、真の瞑想である。
真我とは何とも関わりをもたない純粋な実在であり、身体や自我はその真我の光を得て輝いている。すべての想念を静めれば、純粋な意識だけが残るのである。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.108
「すべての想念を静め」る遥か前に、接触は起こる。静めるのは真我である。自我は何もしないし、何の能力もない。「私は誰か」と自我が問うのは、魂と接触するためである。彼と接触し、彼の存在感覚が強まるならば、もはや何の疑問もない。誰に何も教わる必要もない。「それ自体」が瞑想で何が間違いで何が正しいかを沈黙のうちに教える。悟りやサマーディーなどは、初心者意識つまり自我意識の欲望を刺激するための最初の餌でしかない。欲望にしか人間は反応できないからである。自我が瞑想に成功しはじめるとき、このような観念と関わりを持つことはなくなる。「私は誰か」と問うのではなく、「それとは関係ない」という強烈な感覚がすべてを弾く。真我である当たり前の状態は想念のうちにはなく、人間の方向性はすべて想像の産物へしか向かわないことを理解する知恵がそうさせる。「私」というその感覚が最悪の偽物である。「私」が瞑想していると自我は思っているが、その「私」が空前絶後の詐欺師である。これを本当に見たとき、自我にとってそれはショッキングである。彼は自我として瞑想し、何か獲得するとでも思っていた。自我はどこにも至ることはないし、何にも変容しない。彼は、いわば殺されようとしているのである。それは自我の望むことではない。自我はそれゆえショックを受けるのである。こうして、すべての旅路を導いていたのは真我であり、その旅路をずっと妨害してきたのが「私」であったことを知る。この衝撃と実在の啓示に対する自我の反応を表す言葉に「身心脱落」というものがある。あらゆる自作自演を教えるのは真我なのである。そして真我しかないのに、死を恐れる自我が外つまり想像へ向かわせ続けるのである。この自作自演に飽き飽きした者が聖者と呼ばれているが、彼は、ただ無知に対し馬鹿馬鹿しくなっただけである。彼は「もういい」と言い、真我実現という観念も含め、経験へと向かわせるどのような欲望もないことに満足する。自我という生命力は尽き、静寂という死を受け入れるのである。