自我が、現状どうであろうと、霊的な方向にのみ意志が確立されていれば、何の問題もないことを、誰が理解しようとするだろうか。この確立は、絶えず完全な霊性を体現することを意味していない。心の態度として、真我以外のすべてに対して、本質的に無関心であり、無興味であり、ゆえに、何が起ころうとどうでもいい、あるいは、すべて起こることは完全であるという確信に生き、何も問題などないという、魂に立脚した喜びの意識が求められるのである。自我意識から魂意識は、時間はかかる。その間、適度に遊んで生きても全く問題ないし、それが普通である。つまり、最高のゴールデンタイムである起床直後の瞑想で普通は波動を高めるが、日常では肉体意識・自我意識で多少なりとも行動するため、魂から波動は落ちる。このとき、まだ残っている欲望をこの世で満たすことになるだろう。それは全く問題ではなく、また夕方に、あるいは就寝前にもう一度瞑想し、そのときに達成可能な最高の波動意識にまで戻すことだけが重要である。
やがて、すべて波動の問題だということが分かるだろう。聖典や仏典を読みこなす必要はなく、波動が高いか低いか、そして、高い本物に低い偽物を一致させられるかどうか、これだけであることが分かるようになる。すると、高い波動の源が真我であり、私であり、しかも、今この私であるという境地に至り、我即神なり、我即仏なりの意識にすべてが安らぎ落ち着くようになる。それまでのものは全てなくなり、本物だけが顕現するようになる。この意識は、秘教的には第三イニシエーションまでに達成されるものである。
「霊的な方向にのみ意志が確立」されるのは、第一イニシエーション後であるが、この段階つまり第一段階のイニシエートは、ほとんど普通の人と変わりはない。彼は、まだ霊的なものを知らないが、霊的な方向にしか答えがないことは理解しており、確信はあるが体験がないという状態に苦しむ。この期間は誰でも経験するため、余計な心配はすべて無視すべきである。つまり「私は霊的に才能がないだろう」とか、「今生ではせいぜいこのくらいだろう」などといった情緒的な想念で自己防御しようという弱さに屈さないよう、その種の想念と関わらないことを学ばねばならない。例えば私は、一通りアリス・ベイリーの本を読んだあと、「あぁ、私はよくて見習いの弟子であり、あと数回の生涯で第二イニシエーションを受けられればいい方だろう」ぐらいに思った。自身の段階をある程度見極めることが必要な時期はあるが、その後は不要なものである。私の目測は、自分を安心させるためのものであり、霊的な事実とは無関係であった。これはすべての人に言えることである。
外の表現体には段階は存在すると言っていいだろう。しかし、瞑想を続けるならば、起きることは、自分が「外の表現体」ではないという完全なる理解である。このとき、自分は、それまで自分だと思っていた表現体に働きかける方であって、それが自分ではないことを知り、個人からは自由になる。自我意識というものは、相対的に低い波動に生きているときに錯覚される意識であり、瞑想でひたすら諸体を浄化するならば、波動は高まり、つまり高い波動と一致し続けられるようになり、自我意識というものは存在できなくなる。愛に溢れる者が怒りを決して表現できないように、高い波動に包まれ一体化した場合、低い波動表現や波動意識は存在しないし、知覚対象にはならないのである。このとき、下を見てきた魂つまり自己は、上を見ることが可能になる。すべての客観の背後の主観、すべての多神の背後の一神、この、すべての原初である唯一なる生命自体、キリストが父と呼んだお方が強烈な稲光のように我と我が身を貫くだろう。このお方はじつに、焼き尽くす炎である。
そして、私が知った大きな事実の一つは、あらゆる、この世の霊的な脅しのようなもの、怖がらせるようなものが、全部嘘だったというものである。つまり、何も恐れるものはないことをはっきりと知った。神は、完全に愛だった。この世の最も傑出した人物であっても、彼が自我意識であるならば、彼は必ず裏切る。彼には必ず悪が潜む。彼は怒るし、彼は我々に害を為す。こういうことがないのは神だけである。どれほど失敗しても、神は怒らない。神は常に助けようとしておられる無限の慈悲であり愛である。神と一体化した者がしばしば涙を流すのは、この愛を知るからではないのか。神とは、ここまでのお方であったのかということを認識し、どれだけ平伏しても足らないくらいにその素晴らしさ美しさに人間は……次の単語が思い浮かばない。神を一回知っても、それなりの自我にはまた戻るだろう。そのとき、「あぁ、最初から神だけをもっと求めていればよかったのに、なぜこれほど遠回りしたのだろう。もう二度と神から離れたくはない。神だけがすべてであり神だけが真に……」。神は表現できない。神は想像を遥かに超越した素晴らしい存在であると言うことしかできないだろう。このことを一体化後に自我は完全理解し、より熱心に波動を高め、諸体を意識的に精製するようになり、24時間瞑想に近づくようになる。これは、至高霊である神・生命を知った後は、それ以外は苦痛になることを意味している。
だから、悩みや苦しみを持つ人に解決法を示すならば、神である。この話を間違って解釈すると宗教家や神秘家のような、私と神を二分する誤った謙虚さへ堕落することになる。私は皆を安心させたい。実際は、一つも、怖がらせること、悩ませること、苦しませることはないのである。神さえ知っていれば。例えば、私は親との約束を守るためだけに、大学までは出たが、一回も就職活動はしなかった。企業のために働くことは無理だし、仮に試験を何十と受けたとしても、私ははっきりものを言うタイプであるから、面接用の自分を偽ることができぬゆえ、全部落ちたでしょうね。
こうして親は嘆き、私を罵り、狂った息子、恥ずかしい息子、失望の極であると表現せざるをえなかった。しかし私の父はあなた方ではないという態度が私を貫いていたため、もともと貧乏であったこともあり、さらにこれからのお金の心配は常にあった。また、親が多額の借金を作っていることもこの時期に知らされ、働くように、金を作るようにと懇願された。兄弟は私にはいないから、もっと責任感を持ってほしいと言われた。瞑想ばかりする息子、これは恥ずかしい。しかし、私はそのときにはすでに一定の体験があったゆえ、惑わされることはなく、瞑想の合間に己のみでできる仕事を考えまくり、神に従事していたゆえ、ちょうどイエスが、弟子たちが将来の食べ物や衣服について心配していたことに対し、「空の鳥を見よ、まかず、刈らず、倉に納めもしないが、あなたがたの天の父はこれを養っておられる。あなたがたはそれよりもはるかに価値があるのではないか」と言ったように、全部、神が方向性を示し、その善良なる生き方や仕事にのみ従って生き抜いたならば、私や家族は一生働かずにすむような状態を与えられた。それは神秘的な話ではなく、私は己で考えて何かしら働いたが、この世の働く人達が全く本気で働かず、また全く利他的に働いていなかったため、私の仕事は信頼され、私の仕事だけが求められ、勝手に回りを制圧してしまい、気付いたときには金持ちの年収は日給レベルになっていたが、そのうち父親が癌で死んだ。それで約束は果たしたと思い、私はいくらでも稼げたが全て放棄して仕事を辞めた。だから三年くらいしか働いていないと思う。これは、神に生きれば神が養うことを私の体験を通して信じてもらいたいがゆえに話すものである。むろん、それは「神よ助けてください」という精神ではない。神を信じますから神も私に良いことをしてください、という商取引ではない。正しく生きた結果である。自分では一円も受け取らないという精神、しかしすべての人のために正しく働かせてくださいという願い、あるいは、危険で害悪な商売が蔓延っているならば、恐れることなく果敢にそこへ入ってゆき、安全かつ徹底して善である商売をそこでするのである。したがって、初期段階において、どうしても私はお金を受け取ることができず、ほとんど無料で仕事をしていた。また、私に商売を取られたと思って恨んでくる兄弟たちから何度も暴行を受けた。だから、一番残念なのは、霊的なことを仕事にして大金をもらっている兄弟方である。私は彼らを可哀想に思う。神を信じておらぬゆえ、神よりお金に生きてしまっていることの、なんともったいないことか。みなさん、そういう愚か者を助けてやってください。内なる神に常に生き、神を見出し、愛に、思いやりに、善に、慈しみに生きるならば、悪は去り、悪意は去り、利己主義は去り、天の富すなわち真我が顕現し、どれほどの金持ちよりも神的に豊かになり、どれほどの権力者よりも神的に無敵になり、完全なる善と愛に生きることが可能になることを、体験と体現を通し、愚か者たちに教えてやってください。