「精神力」とはよく言ったものである。それは「精神の力」だが、もし精神を脇に置いたならば、残るのは「力」だけであることを露呈させている。非精神化を達成した後に我々の面倒を見るのは、この純粋な「力」である。この力が真の行為者もしくは行為という現象を可能にさせる力である。
「精神力」を目で見た者はおるまい。しかし「努力」や「精神力を振り絞る」ときの感覚などから、何が精神力であるかを人間は理解している。しかし、同じ行為が現象として起こるために、必ずしも精神が介在する必要はあるのだろうか。あるいはむしろ、精神が介在したがために、「力」が別の方向に使われたり、純粋なベクトルつまり純粋な意志を歪曲するといったことが起きているのではないのか。我々が精神を介する必要がないことを理解したとき、力がそれ自身に内在する意志によって神の意志をこの世で我々の肉体のような媒体を介して為すであろう。したがって「精神力」は生きる上で不要になるだろう。力はそもそも自動的に流れているからである。にもかかわらず「私の力」と思うとき、「精神=私」が純粋な力を濫用するのである。
「精神力」とは自我の意志である。引き算で精神だけを抜かすならば、残るのは純粋な力であり意志である。この純粋な力つまり意志のことを我々は神の意志と言っているのである。したがってそれは理解しさえすれば特別なものではない。もし自我の意志と神の意志を一致させるという言い方をするならば、必要なのは引き算だけである。精神を抜かすことだけである。その精神でないときの自分が魂である。
これがどれほど我々を解放するか分かるだろうか。精神でなくていいこと。自分でなくていいこと。責任がなくなること。一切から自由であること。ゆえに、引き算で精神を抜かした賢き者は、静かで目立たないであろうが、この上ない喜びと至福の中に常に在るのである。太陽は人間の生活においてこの上なく軽視されており、何かしら昇ったり沈んだりする自然の一部程度にボーっと見られているが、我々を養っているのは太陽である。少なくとも太陽なしに生きられる者は一人もいない。にも関わらず、我々は太陽に感謝することがない。太陽に生かされていることを意識していない。当たり前だと思っている。いま、内なる太陽である魂が、そのような軽視を何万回という転生のあいだ受けている状況である。とはいえ外なる太陽であれ内なる太陽であれ、無限の愛を体現しているため、どれだけ無視され軽視されようが、与え続ける喜びに満ち満ちている。これが真の奉仕者である。
世の中の錯覚にかまけているとき、ちょうど太陽が彼や彼女の意識内において存在していないに等しいように、魂もまた存在していないも同然のものになり、それが自分であるにも関わらず、「魂とは何か」とか「真我とは何か」といった嘘のような探求が始められる。これらはすべて精神に生きている結果である。イリュージョンに生きている結果である。それは眠りである。けっして目醒めではない。
では、精神の引き算を我々ができないのはなぜか。当たり前だが我々が精神だからである。自我意識は、このぐらい簡単なことすら理解できないほど無知である。つまり自我意識とはそれに生きる価値のないものである。精神ないしは自我で生きている者は、自分で努力することが探求だとか瞑想だとか奉仕だとか思っている始末である。この種の錯覚に生きている場合、夢から覚ますには平手打ちのようなものではあまりに生ぬるい。この世の不幸や苦痛は、目を覚ますための学びを提供するものであり、それは生ぬるくない。時には生ぬるい生涯もある。と言うより、何万回の生涯があるとして、そのほとんどが生ぬるい生涯である。最終盤にかなり厳しいものになる。そのことを人々は「魂の闇夜」などと言っている。錯覚から覚めて魂に目覚めるまで、控えめに言っても耐え難い苦痛の生涯をくぐり抜ける必要がある。それは、我々が成熟したことによって、言い換えれば波動が高くなったことによって、魂の注目を引き、魂が「時」を認識し、我々の意識を、人間魂を、強制的に超魂自体に吸収する過程が始まったということである。
いま朝の七時二十分。ちょうどまた再び太陽が窓の外から立ち現れ、この書いている媒体を光と熱で心地よく穏やかに、しかしまぶしめに照らしつけてくるではないか。しかしこの美しさ心地よさに、内なる太陽と一体のものとして溶け込むあまり、話がずれてしまってはならない。と言いつつ、あまりの心地よさにこれ以上書くのは不可能ではないかと思われてきた。書くためには、あるいはこの世を認識しているためには、道具として精神を多少なりとも用いることになるが、この外的太陽とのいわば社交ダンスにおいて、精神を維持しておくことは
