素晴らしき哉、神生

バッハのコラールであれ、黒人たちのゴスペル・ソングであれ、いわゆる「神を讃える歌」の背後には、「自分が救われたい」「自分が安全でありたい」「自分が神に好かれたい」などといった願望と恐怖が存在するだけであり、しごく無知である。それはアストラル的な歌であり、日本人のカラオケと同じくらい無価値である。世の賛美歌は、光に似せた影の創造であり、神への奉仕に似せたアストラル体への奉公であり、宗教的な衣をかぶった無知の悪事でさえある。

真の賛美歌は、魂が霊を認識するときの意識状態であり、それは沈黙の存在が放射する無声の歌である。その歌詞は、すべてが美しいというものであり、すべてが完全であるというものである。肉体による無知な形式や模倣というものは、賛美歌に限らず多いものである。例えば、謝罪はどうであろうか。肉体の方の私をいま憎んでいる方が、私に謝罪を求めていることに気がついた。謝罪とは、この世では、他人の気分を和らげるための技術であり、何かを恐れるがゆえの恐怖の表現であり、基本的に自身に害が及ばないように努める見かけ上のものである。私は、私を害する者を愛しているゆえ、どうして謝罪などできるだろうか。どうして愛と謝罪が共存しうるだろうか。

神は、謝れとは絶対に言わない。重要なことを言うが、神は無限に赦しであり、無限に愛である。謝罪を要求することもなければ、謝罪を表現することもない。出来事の背後には常に神が存在しており、一見して惨たらしく恐ろしい出来事の背後にさえ神は浸透し、神ゆえに現象としてあらわれている。人に謝ることを否定しているわけではない。謝るという行為の動機に気づき、それが普通は利己的なものであることを知らねばならない。人に迷惑をかけたり、悪事を為したりしたとき、この世ではまだ、自分が行ったと人は思うし、他人の場合はその肉体人間を責める風潮にとどまっている。だから謝罪しろ、責任を取れ、といつも争っているではないか。真の賛美歌意識に帰ってみたらどうだろうか。自身への攻撃も、自身へ攻撃する人も、何であれ美しいことに気づくだろう。そこに完全性を見れるようになり、神の偏在を知り、ひいてはすべてが我であるという、この上ない至福の喜びに満たされるだろう。

お前は裏切った、だから許せないと、今日も世界中の迷った人間たちが鬼の形相で喚いている。他人を変えようとすることが無意味であることを彼らは学んでいる最中である。裏切られて傷つくならば、どのような弱点が自身にあるのかを見ることに意味と意義を見出すのが見習いの弟子である。弟子の段階では、裏切られて傷ついた感情が出たとしても、それは気づいてすぐ無視される。感情や情緒との同一化は起こらない。無関係であることを、弟子つまり魂は知っている。この意味でジュワル・クールは、「気にしないということの効用にあなた方が気づきますように」と言ったのである。

この世で己に賛同するものを探し求めたり、仲間を見つけようとする必要はない。百億ばかりの人間をたとえ味方につけようとも、やがて内輪で喧嘩が始まるだろう。神だけを味方につけよと私は言っているのである。内なる実在のみを求めよ、さすればすべて与えられん、である。なぜなら、神は永遠に愛であるゆえ、この意識にあっては、いわば無敵であり、多少子供じみた言い方をするならば、最強だからである。無敵の主人公が出てくる映画や漫画を見て逃避する必要はないのである。喧嘩や殴り合いで他人を失神させるときの快感は、その者に文字通り神を失わせるという耐え難い不快感として戻ってくるだけであり、倒す者は倒される。自分が強いと思う者は自分が弱いことを教えられる。自分とは何なのか。強い弱い、有能無能、美しい醜い、このような形態に関するものばかり夢の世界で追い求めて、絶頂と奈落を繰り返すだけの人生ならば、はやく卒業しないといけない。

私のよかった点は、この世の夢幻的物語に飽き飽きして、神のみを愛し信じ求めた点である。神という単語を私は使わなかったが、ここでは分かりやすく言っている。しかし世の中の人間は、神ではないものしか求めていないのではないか。賛美歌といいつつ、そのじつ讃えたいのは己ではないのか。自我奉仕と神奉仕の識別をしないと、永遠に無知に留まることになる。この無知ゆえに、我々という媒体は無意識に常にあらゆる偽物と同一化するゆえ、汚れきっているのである。簡単な理屈だが、怒りと愛が共存できるだろうか。不幸と至福が共存できるだろうか。悪いものを己という媒体に入れておきながら、どのようにして神を呼び込むというのか。このような初歩的な事実を認めざるをえなくなったとき、人はいわゆる浄化に興味を持つようになる。正しくありたい、善でありたい、決して悪や害とは関わるまいと願うようになる。このようにして神への接近が始まる。このようにして神と同調できる波動的素養をおのれに培い媒体を浄めるようになる。そこそこ浄化されだすと、伝導体になる。この伝導される上からのエネルギーが歪曲されず滞りなく流れるようになるまでおのれを神に委ね生きたとき、とつぜん彼は神と合一する。

仲間にするのは神だけでいい。だから賢者は、「孤独なときに神は訪れる」と言ったのである。この意味が分かるであろうか。孤独感はただのグラマーだが、真の孤独は途方もないものへと導くための極意である。真の孤独とは、神だけを求め、神以外は求めない状態であるが、その状態が可能になるのは、多少なりとも神が媒体に入ってきたときだけである。それまでは、神は概念であり、求めることは情緒である。そのようなメンタル体、そしてアストラル体が静かになり、本物に整列したときだけ、直通が可能になり、一体化の結果、生ける賛美歌になる。その者が以前に誰であろうとも、この普遍的な愛によって癒やされるだろう。そこに至るまでは不幸であると錯覚していた者も、自身がすでに至福であることを理解し、喜ぶだろう。この低位我を静かにさせ高位我を引き入れるという手段が瞑想である。そして我々は、瞑想できる人生を授かっている。だから我々は、相当な幸運であり、最高のカルマの下に生まれており、悟りのため息が出んばかりに恵まれた人生である。

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