素材なき喜び

喜びを知らない大人たち

人類の大人は、生を、「喜んでいい」ということを知らない。もしくは忘れている。

われわれが子供のとき、より純粋で無邪気な喜びが在った。
だが、この世の大人の顔には、もはや喜びはなく、
彼らが喜ぶとき、それはただ、気分が良いことによるアストラル的な高揚にすぎない。

出来事や状況とは関係なしに「喜んでいい」という事実に対して、
私はそれを、人々が「知らない」という表現を使いたい。
「あなたは喜んでいい」とは言わず、「あなたは喜んでいいことを知らない」と表現する。

なぜなら、私はいま、「喜ぶためには喜ぶ素材が必要だ」という大いなる錯覚が存在していることを指摘しようとしているからである。

喜ぶためのいかなる素材もなしに、
どのような人間も、「喜んでいいのだという解放宣言が我が内に知られ、響き渡らねばならないのだ。

でなければ、喜びは、
恋人が出来た、昇進した、新車が届いた、などの素材に依存してのみ起こりうるもの、
あるいは、霊的な達成や変容、静寂の獲得や真我の実現、などの霊的に装飾した素材によって起こることが許されるもの、
という洗脳の中で生きることになる。
これは暗い人生である。喜びを知れない陰鬱な生き方である。

喜びは素材に依存しない

しかし、素材なしに、また未来の話ではなしに、
すでにこの現在において、
生がいかなる状況にあろうとも、
「喜んでいい」し、「喜ばしいもの」でありうると知ったならば、人間はどうなるだろうか。
全人類がもはや、素材を求めて争うことなく、戦うことなく、今すぐ自由に喜びである

支配構造と集合意識の罠

ところで、これくらい簡単なことを分からないようにさせているのは何なのか。
競争を基軸とする世の構造――
勝者だけが報われ、怠惰な者や無能とされた者には、
努力の足りない敗者として、それに見合った報いしか与えられないという仕組みと価値観、
これらが生み出している集合的な意識や想念形態に絡め取られているからである。
これはイリュージョンである。

人間は、内を知らず、真の自己を知らず、
外の世界に生きるがゆえ、世の中の話を信じている。
結果、内なる声は聞こえず、すでに内在する喜びには触れられることもない

号令としての「喜んでいい」

もし、アストラル体が静かであり、メンタル体も静かであるならば、
「喜んでいい」という号令を今すぐ自らに発することができるのである。
その瞬間から生は喜びであり、愛に溢れ、すべてが美しくなる。
誰がこれを信じるだろうか。

アストラル体やメンタル体が静かであるとは、
個人に属するすべてのものをハートの神に捧げた結果である。

読者の多くが苦悩に打ちのめされている。
言い換えると、「素材が不足しているため苦しむべきだ」と自ら決めている

例えば、
いくら瞑想しても静けさが自分にはないため、霊的に絶望的であるに違いなく、
それが事実であることは苦しむべきものだ、という無意識的な判断のもとに勝手に苦しんでいる

素材こそが空虚を生む

私はここで、「素材」というイリュージョンについて語っている。
人間は最初から空虚を埋める素材を欠いておらず、
素材があると思い込むことが逆に「空虚」を生み出している
のである。
すなわち、霊的な無知が空虚感の根本的な原因である。

恋人を得ようと、金を持とうと、欲したものをすべて手にしようと、
どうして空虚が、永続的に満たされるなどということがあり得ようか。
それらは実際、次の不幸の原因でしかない。
何かを手にすることは、より大きな空虚を創造することにすぎない。

よって、「素材」がなくても良いこと、
人間は新たに「素材」を必要としていないこと、
これらを知ること、知的に確信すること、それによって、
「素材」を求めよという自己命令から解放されること、
これが個人における一切の努力や欲望を解消させるのであり、
その知恵こそが「静けさ」を人にもたらすのである。

素材なき喜びという真実

われわれは、「素材」なくして喜べる存在である。
この喜びは、感情の喜びとは一切関係がないゆえ、尽きるということがない。
永遠の喜びであり、したがってその喜びは外に向かっては愛として表現され、
愛と喜びの分かち合いが実現され、
常に人類のすべての存在が至福に満たされて生きるということが、
「素材」がいらないということを知るだけで、可能になるのである。

素材を手放す覚悟

となれば、次のような質問が最後に発せられるだろう。
私がしがみついている素材とは何であろうか?

――その素材は私という個人の目的が達成されるための素材であり、
それは、他でもない私自身が「必要だ」と定めた素材ではないのか。
それゆえに獲得しても終わりはなく、永久に不幸なのではないのか。
であるならば、「素材」という発想を一度手放してみる価値があるのではないか。
実際に、「素材」を求めることなく生きることは、本当に可能だろうか。
これらについて徹底的に考え、本当に「素材」がいらない可能性が高いと思える地点まで、
どうも結論づけることができるのではなかろうか。

多くの者は、この革命的な真実を恐れるだろう
「素材」なくして、つまり、自分が何もせずとも完結してしまうということ、
探求の終焉と、自我という「生き方」の解雇通告を、彼らは恐れ、拒むだろう。
この話は自分には当てはまらないという理屈を見つけ出すことを優先するだろう。

であるならば、「不可能ですね」としか私は言いようがないということになる。

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