幸福を達成する者は、次は常に、不幸を求め始めるものである。いかなる快楽もやがては刺激に欠けるようになる。そして無刺激は刺激へと向かう宿命である。行ったり来たり。一方が成り立つためには他方が必要であり、したがって相反する対を為すものは、常に交互に訪れねばならないものである。幸福と不幸、安心と恐怖、快楽と苦痛、達成と失敗、歓喜と悲哀――この種のいずれも、常に一方が他方を演出する役割を果たしている。例えばスポーツ選手を見てほしい。負けた悔しさが大きいほど、勝った喜びもひとしおであることを知っており、その種の刺激をいかんなく味わうためには、勝利と敗北を交互に利用せねばならないことを、無意識にではあるが自覚している。私は何を言いたいのか。すべて自作自演だということである。自己演出だということである。不必要な往復だということである。
片方を経験するためには、もう片方が必要であるという原理を、この世の自我たちは、自我の拡大のために利用して生きている。したがって、しばしば、不幸なことを喜んでいる。あるいは幸福であることを悲しんでいる。この途方もない無知に気づいた者は、どちらも経験したいとは思わなくなる。つまり、どちらにも興味がなくなる。
私たちが研究するとき、私たちが関わっているのが、意識の中心としての魂と経験の中心としての媒体であることをはっきりと覚えておくべきである。……また、人間の意識がまず第一に、三体に順次焦点化されること、そして経験の中心が彼にとって主に意識の領域であるということも覚えておきなさい。彼は長きにわたって、真我ではなく、経験の領域と同一化している。彼はまだ、意識的な主体、つまり目覚めた者と同一化していないが、時と共に、彼の同一化の中心は移行し、彼は経験の領域にあまり関心を抱かなくなり、思考する意識的な個人である魂にもっと目覚めるようになる。私たち各々が理解するかどうかは、私たち各々が個人としてどこを重視しているか、私たちがどこで目覚めており活発であるか、私たちが何を意識しているかによって決まる。私たちが、第三イニシエーションの体験を達成し、もはや表現媒体と同一化しなくなったとき、そのとき――より高い螺旋状において――生命表現と経験におけるもう一つの移行が起こるであろう。そのとき、経験の中心である魂も、表現媒体である三重の人間も、意識の観点からは全く考察されなくなるであろう。生命様相が他のすべてのものに取って代わる。
アリス・ベイリー「秘教心理学・第二巻上」p.379
この文章は美しく、エッセンスが詰まっている。「経験の領域」を卒業しつつある者だけが、瞑想が可能である。しかし、通常の瞑想は、「経験の領域」の延長として扱われており、新たな経験を得るためのものとして認識されている。この違いが理解できるだろうか。平均的な瞑想者は理解できないのである。彼らは高次の体験や経験を求めている。そのような霊的願望がなくなったときにだけ、本物に近づくことが可能になることを、まだ知らないか、知りたくないのである。
この種のアストラル瞑想を卒業し、つまり自身の欲望体を統御し、霊的であれ世俗的であれ、願望という願望に関心を抱かなくなり、相反する対を為すものの中央の道、どちらにも自身が振れない状態が長きにわたって達成されたとき、初めて人は「意識の中心としての魂」つまり自己を理解するようになる。人々が通常「私」と言うとき、それは表現媒体の方である。それらが躍動する経験の領域への憧れが失われたとき、不幸にも幸福にも影響を受けない至福の領域が見出される。それは「経験の領域」の延長には決して存在しておらず、「経験の領域」の終焉が開示するものである。これは神秘ではなく真の現実である。
アストラル体を統御した後、メンタル体を統御するとき、最初は方法が分からないものである。この文章にすでに秘密が隠されている。というのも、アストラル体は「方法」で統御できるものであるが、メンタル体の統御は「方法」を認識しているマインド自体が静かにならねばならず、そこにはいかなる自我の関与もないからである。
個人の意志しか人間は認識していないが、想念の背後に、神の意志が存在している。この文章だけでノーベル平和賞を永久に受賞するに値する。個人の意志は偽物である。神の意志だけが本物である。前者は快楽と苦痛を交互に体験させる「経験の領域」を提供するだけの無間地獄だが、後者は経験を超えた「存在の領域」を啓示し、それと一体化させ、遍く天国を復興させるものである。この領域や、神の意志といったものが発見されないのは、想念の背後を透過して見る能力がないからである。それには、一時的にであれ、想念ないしは具体マインドを静止させる魂の能力が必要である。魂的に知覚領域を眺める術を習得し、個人の意志なきところに、神の意志を見出さねばならない。それだけが救いだからである。それだけが自我からの自由を、そしてあらゆる不調和からの解放を可能にさせるからである。
我々は、自分が行為しているという感覚がある。そのような想像が瞑想でやがて静かになるとき、想念の背後に本流を見出すだろう。この流れに身を委ね、この流れ自体と一体化することが至福の道である。そこには、個人的な私というものはない。個人的な責任というものもない。個人的にすべきこともない。これが個人からの自由である。この自由を知るならば、我々は喜びを知るであろうし、初めて愛というものを知るであろう。つまり神を知るであろう。……途中だが、ここで今回は終わる。というのも、途中まで書いておき、また空いた次の時間に続きから書くということはできないからである。
