罪と罰

苦しみは低位我が逆らうときに訪れるものである。したがって、低位我を統御し、欲求を排除することによって、あらゆるものが喜びになるのである。

アリス・ベイリー「イニシエーション」 p.112

この引用の一般的な問題は、低位我が、その逆らっている対象を認識できないことである。転生周期のかなり後半まで、低位我は低位我しか認識できないことが問題である。そのとき人間は、何の疑いもなく、肉体を自分だと確信して生きる。何か思い浮かんでも、それを自分の想念だと思う。何か過ちであると思うことを犯しても、それを行ったのは自分だと考え罪悪感に苛まれる。つまるところ、主体に対する認識がないのである。誰が主体なのか。誰が私であり、誰が行為者なのか。ここには一切の分離は存在していない。低位我は、つまりマインドの産物は、外しか見えないものである。瞑想するならば、内から力が現れ、この力に逆らっていたことが知られるだろう。それは高位我の力であり、魂の力である。それは真我である霊からすれば二次的なエネルギーでしかないが、融合し合一するまでは導く偉大な力である。世界や現象は、この一なるエネルギーの多様な無数の結果でしかない。……

私は良い人間ではない。私は嫌われ者であり、プライドが高く、見下されることに耐えられず、常に精神の優位性を築いていなければ我慢ならない。他人に傷つけられたら、必ず仕返しをしてきた。私に与えた以上の攻撃を反射的に行ってきた。そしてある人物を私はひどく傷つけ、その罪の意識から逃れられないでいる。しなければよかった過去の過ちを忘れられず、償いたくても償えず、もはやどうして良いのか分からないでいる。

それを行ったのはあなたではない。

私に全く責任がないと君は言うのか。

その私は存在していないという意味である。起こったことと真のあなた、つまり一なる原因は関係がない。どのような結果も原因に影響を与えることはできず、そしてあなたは原因である。あなたは幻影でしかない結果の世界の住人ではなく、それらを超越した神である。

度を超えて都合の良すぎる解釈ではあるまいか。

ならば好きなだけ酔っているといい。あなたは好きなだけ泣いたり悔やんだりすることができる。今は自己憐憫に酩酊しているが、瞑想でシラフになり、現象つまり全てが連関しあっている結果の極微な一部と、それらを可能にさせている真我、つまりあなたが全く関係ないことを知ることで、解釈ではなく真理に到達できる。あなたが真理である。

私は残忍なことをして、相手は死んでいる。私は真理ではなく殺人犯である。

感傷に騙されてはならない。何も死にはしない。誕生や死は形態の変化や可視不可視の問題でしかなく、生命自体つまり原因はそれら変化の影響を決して受けない。特定の誰か、という分離は錯覚である。目に見える幻影ではなく、あなたは目を瞑ることであなた自身を知る必要があるだけである。すると三界つまり現象の世界は実在ではなく、あなたは文字通り無限の許しと慈悲に守られていることを知るだろう。その守護自体があなたである。したがって存在するのは神だけである。

そうかい。君の方が何かに酔っているのではあるまいか。私は犯した罪のことを考えている。そして私は許しや無罪に値したいと思ってすらいない。私は残虐なことをした。苦しむべきである。

事実は、何も起きてなどいない。罪も罰もマインドの解釈でしかない。外的世界はマインドの幻影である。瞑想はマインドを超越させるものである。しかし私の体験によると、マインドを完全に超越する前に、あなたという錯覚の意識から大きく自由になれる。この段階であれば、多くの瞑想者が到達できると私は考えており、そのために話している。信じる必要は全くないが、自身の瞑想を信頼してほしい。

では何のための世界なのか。何のために私は殺したり、殺したことで苦しんだり、地獄の日々を生きねばならないのか。

ミクロの視点で幻影を語る気はない。何も分離しておらず、何も独立していない。すべては連関しており、事象や世界はあなたという錯覚においてはあなたつまり物質を霊に適合させるための経験の場であり演出ないしは劇でしかない。瞑想において、あなたの世界は消え去り、存在していないことが知られるだろう。

現状、私はどうなるのか。どうすればいいのか。殺人者でありながら、それをなかったことにして瞑想に興じることなどできうるだろうか。

だから、好きなだけ悔恨や慟哭や懊悩は可能だが、あなたは真実を知るべきである。誰も殺人者ではなく、また誰も殺害されていない。外の幻影つまり内へ引き戻すための魂の演出ではなく、真のあなた自身に戻るべきである。何の重荷もなくなるだろう。あると思っていたもの、したと思ってきたこと、すべて錯覚として消え去るだろう。それらは実在ではなかった。実際の存在でも出来事でもなかった。あなたは無限に喜びであり愛であり至福であることを知るだろう。

肉体の私は殺されるだろうか。そのようなカルマを刈り取るだろうか。早く刈り取り殺されることは可能だろうか。私は殺された方がむしろ喜ばしいのだ。そして罪を清算し、被害者にひたすら謝りたい。罪をただ償いたいだけなのだ。

ならばより困難な道を歩むべきである。それはカルマを相殺する道である。あまり知られていないようだが、良い行いは悪い行いの十倍は力がある。もし良い行いと悪い行いが同等のカルマ的比率であるならば、誰も救われないだろう。あなたが世界を実在とし肉体を自身として生きるのならば、殺される簡単な道ではなく、生きる困難な道を選び、弱音を封印し、正しさに己を鞭打ち、真理を見出すべきである。これは苦闘の道である。あなたのその軟弱で楽な道ではなく、もっと耐え難く辛い道である。しかしやがて次の言葉が現実になるだろう。

熱が激しくなる。そして、苦しむ能力が失われる。この段階を越えたとき、太陽が遮られることなく光り輝き、真理の明るい光が差し込む。これは秘められた中心へと戻る道である。

ホワイトマジック下 p.54

あなたつまり意識が「秘められた中心」へ座すようになったとき、かつてのあなたの錯覚はいずれも氷解し、罪は真に精算され、謝罪は感謝へ変わるだろう。罰などなく、愛しかないことが知られるだろう。

私は自分を許すことができず、その自分を痛めつけることだけが望みである。

いずれにせよ、すべては霊的な大団円へと向かうだろう。その微細な部分つまり一つの生涯や一経験だけを抜き取るのではなく、大団円である人間の目的を知り、あなたが受け持っている物質の波動を高め、高位我を認識できるようにし、自由になってもらいたい。調和して楽になってもらいたい。低位我を高位我に明け渡してもらいたい。このような困難な道を志向してもらいたい。そのような勇気があなたに訪れるよう、私は祈り続けるだけである。

試験が行われるのは、熱誠家自身の魂が、転生する前にそのように定めたからである。これまでに経験したことのない成長をある程度達成し、形態からの無執着をある程度成し遂げ、形態生命からの解放につながる準備を経験するのは、自分の魂がそうしようと意志したからである。…弟子がどの程度の訓練を経験するかは、肉体をまとう前に魂によって決められており、法則によってそのように決められているのである。

秘教心理学1 p.41
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