誰もが、自分に何らかの責任があると思い込んでいる。もし、我々に何かの責任があるというのなら、我々は永遠に自由にはなれないだろう。永久に責任を所有し、その責任に縛られることだろう。責任とは、自身が特定の個人であるという思い込みが存在するときにだけ、一時的に存在する錯覚である。例えば悪事を働いた結果として刑期を務める責任があると人は言う。あるいは、昨日酒を飲みすぎたから今日は二日酔いに苦しむという責任は妥当だと人は言う。病気になったら治るまでは病気に耐えなくてはならないはずだと人は言う。これらは事実ではない。I AM Xであるときだけ、事実である。瞑想が発見させるのは、Xが存在しないということである。それは、Xを超越したI AM自体に到達するがゆえである。Xがないなら、Xの責任という論理は成り立たない。この夢の世界の話はそっくり消えて無くなる。そうして、我々の世界は事実ではないという結論に到達する。知恵を引き込んだ人間はもはやXではなくなり、自身が最初から超人であり、XやXのいかなる責任からも最初から無関係であり、自身が完全に自由の身であることを霊的な調和という至福のなかで知るのである。
この知恵に我々は到達することができる。これは我々にとって、かけ離れた話ではない。非常に有益な、そして実際的な話であることを信じてもらいたい。我々の各々が、自身をXだと信じる癖がついているため、自分には無理な話であると考えたがるだけである。しかし事実は、すべてのXが自身を追求したとき、彼の意識に真のリアリティーであるものが到来し、いちどきに彼は知恵の光に包まれ、多くのことを一挙に理解するのである。つまり、すべてのXに共通する源――唯一なる真我として真理に接するのである。すると、自分の責任であると思っているものすべてが消滅する。病気の者は治り、そもそも病気はXの問題であって真の自己の問題ではなかったことを理解し、まさに知恵によって病気という錯覚は消え去る。自身が悪人であると思いこんでいた者は、いかなる個人も存在しないことを理解し、たとえ自身が犯した悪事という話を信じていたとしても、特定の行為者というものが存在していないことを知り、私は罪を犯した者ではないという結論に到達する。彼は刑務所暮らしを続けるかもしれないが、彼の意識はもはや世界を超越しており、世界という夢物語の話からは完全に自由になる。いかなる苦悩も重荷も主によって破壊される。
誰もが個人的に問題を抱えている。その問題は解決されねばならないと思っている。その問題は自分の責任であると思い込んでいる。博打に狂って多額の借金を作った者は、返済が自身の義務にして責務であると思っている。それはXの話だということが分かるだろうか。Xの話とは、自動的な見た目上の映像と感覚の物語である。それを経験するのはマインドと同一化した意識である。長年の瞑想が与える能力とは、壁をすり抜けるようにマインドをする抜けさせる能力である。壁の背後のリアリティーを知ることで、非リアリティーを理解するのである。我々はXではなかったのである。すると、どのような責任からも即時にいま自由であることを理解するようになるだろう。責任が存在するのは、自身をXだと見なしたときだけである。知恵が訪れた者にとって、責任はあまりに無知な話である。我々は、Xとの自己同一化から自由になり、Xの病気とか、Xの罪とか、Xの自己努力とかいった話から完全に自由になる。Xの話は続くかもしれないし、多くが続くであろう。しかし、もはや彼にとって現象の世界は事実ではなくなっている。このようにして、我々は無責任になる。Xは責任を解消するかもしれないが、Xの背後の真の自己に意識は集中するようになり、Xの世界と彼の物語は現実とはみなされなくなるし、存在していないも同然になる。彼は人々と同じように世界を見ることもできるが、世界を一瞬で消し去ることもできる。これが、仏教徒が崇める観自在菩薩の真意である。そして仏教文献が述べる無礙自在の真意である。いかなる障害も彼の観照においては活かすも殺すも自由自在である。そしてこれらは全て魂の能力である。
魂は、果てもない転生の鎖に繋がれてきて、常に自身をXだと見なしてきた。ある生涯で瞑想が可能になるまで発達し、魂は自己自身を発見するようになる。魂が三界のXに集中するのをやめて、魂自身に自己集中するようになるのである。こうして、蓮華の中の宝珠すなわち至高霊そのものに到達する。彼は菩薩になる。彼は神になる。最初からそうであったことを知る。「知る」とは、無知に知恵が訪れたということであり、闇に光が訪れたということである。我々の問題は、注目の焦点が物質に向けられていることによる無知だけである。瞑想で、物質ならざるもの、目に見えざるもの、形態の背後に存在するものに到達することで、我々の世界と、その世界の話はともに超越される。この事実は人類の希望である。ただし、それを信じない人がほとんどであるのもまた事実である。私が嘘を言って何の得があるだろうか。嘘つきを演じて何の得があるだろうか。受け売りに堕したり、知らないことを知っているふりをしたり、あるいは創作したりして、何の得があるだろうか。理解してほしくて書いている。普通の人は672夜を読まない。意味が分からないし、分かることが必要な生涯でもない。しかし熱心に読んでいる人は、理解することが可能であり、霊的素養に恵まれて生まれてきており、今は理解することが責任である。この責任を個人としていかにして果たすことができ、理解に到達しうるというのだろうか。
瞑想の積み重ねと言うより他にない。真理は、誰かが教えてくれるものではないし、教えられる種類のものではない。我々は頭で理解する癖がある。つまり具体マインドしか知らない。瞑想の効能は、このようなマインドの鎮静効果である。それにしたがって、高位のエネルギーが流入するようになり、そのような波動と一致するようになり、高い波動で生きるにしたがい、それ相応の霊的知恵が少しずつ流入するようになり、弟子は螺旋的ではあるが漸進的に進歩するようになり、知る者になり、知られる内容がいわば梯子となり、このようなメンタル質料でアンターカラナの前半は構築され、魂へと貫通する。魂に貫通したということは、光と融合したということである。彼は光になり、いまや光は自由に使用できる彼の装備の一部になる。光は依然として質料である。この光を携え我そのものへと集中が法に則って引き起こされるとき、アンターカラナの後半が構築され、魂は霊的トライアドへと貫通する。このようにして霊すなわち真我へと帰還するようになる。
すでに魂と接触している方は、個人的な自身に関するいかなる責任も自分のものではないことを覚えておく必要がある。責任感覚に生きるということは、魂ではなく個人に生きているということである。引き続き瞑想に集中し、瞑想の美しさに明け暮れ、徹底して魂へと前進しなければならない。融合したとき、すべてのものから自由であることを実際に理解するであろう。
魂に接触する前の方は、このような話が自身における近い将来の事実であることを理解し、その最も困難な時期を、引き続き耐え忍び、引き続きすべてを諦め、瞑想と奉仕に生き、親切な人間として生き、自身を諦めたがゆえに可能になる善意にひたすら生き、自分ではなく困っている他人を助けること、そのような助力ができることに感謝をし、正しい道へと導いてくれる瞑想にひれ伏す思いで、外的な師よりも瞑想そのものの中におられる内在の師にすべてを委ね、このお方の懐へと帰ってもらいたい。
基本的に今日言えることはこのようなことであるが、この数日書けなかったため、あと数記事は連続して書いておきたいが、本日もまたXの義務があるゆえ、この世界でできることは限られることになる。このようなときに重要なのは、みなさんもそうであると思うが、仕事であれ家庭の事情であれ、Xの義務の最中も瞑想に入っておくことである。でなければ、魂としてこの現象の世界で生きることはできない。これを習得するのは第二イニシエーション以降である。歩いたり話したりしながらも、つまりXの日常生活を普通に送りながらも魂であり続けるという訓練である。この訓練は、世の中の訓練と違って努力でもなければ苦痛や葛藤が伴うものでもない。それどころか、努力という不調和の反対の、無努力という調和と一致し続けるというものである。それこそが至福の道である。やがて、自分という感覚が失われ始めるだろう。つまりXの感覚はなくなり、この世の事象は自動的なものであり、我々は一切関与していないことを離れた観照の位置から知るだろう。Xは責任を果たし続けるだろうが、我々の意識は至福という無責任状態に酔い痴れ、たえず自由であるだろう。何ものにも制限されず、縛られもせず、これが喜びの道であり、静謐なる歓喜の道であることを知るだろう。いや、それは道ではない。I AMである。