聖なる苦痛

本物と偽物の違いとは何か。実在と非実在の違いとは何か。我々は肉体を自分と思い、肉体が存在していることを認めている。では、肉体を見ているのは誰なのか。肉体を感じているのは誰なのか。肉体だろうか。

肉体が存在していると言う人は、肉体に意識を焦点化しているだけである。その結果、肉体意識である。しかし、肉体あるいは肉体感覚は、意識によって知られているものではないのか。最初に真我が在る。次に、真我である霊が、どのような形態と交わったかで、意識が決定される。意識も肉体形態も、順序で言えば真我の後である。私が最初である。私の中にすべてが含まれている。次に、意識の中にすべてが含まれている。第三段階のイニシエートは、意識より前の私を見い出すがゆえ、意識には関心を向けなくなるのである。

真我つまり霊が物質と交わったとき、霊と物質は分離していたのだろうか。この問いは人間の知性の限界を示している。もう一度言うと、私が最初である。私が原初である。その唯一なる原因から派生したものは、すべて私の中では夢のレベルであり、夢を可能にしているのはマインドであり、意識の違いにおけるどの夢も、またどの夢に含まれる見かけの上での存在も、実際の存在ではないのである。

寝ている時の夢の世界と、我々が現実と呼んでいるこの世と、その実在性において、何の違いもない。いずれも、意識の中で上映されている物語である。これを認めきれない人はあまりいないだろう。では、意識が私なのだろうか。もしそうならば、無意識とは何なのか。意識がある時とない時、これらの知覚状態とは関係なしに、その背後に絶対的に存在しているもの、人格でも知性でも意識でもないもの、我々が知っているどのような概念にも当てはめられないもの、つまり我々の概念や既知の枠組みのいずれをも超越しているもの、これが真の我であるが、この説明に言いようもない虚しさがつきまとうのは、言葉の世界に属せぬものを言葉で扱おうとしているからである。


では、言葉に属する状態から話そう。なぜ我々は霊的な探求をしているのか。なぜ瞑想しているのか。なぜ言葉に属さぬものを追い求めているのか。本の影響だろうか。なぜ本の影響を受けたのだろうか。普通の人は聖人の話に見向きもしないのに、なぜ我々にとっては切実でありえたのか。

さほど苦しみも知らずに、欲求の延長として霊的な探求をしている人々が大多数である。確実に何も見出さない種類の若い兄弟姉妹である。この子供たちは、ある意味、幸せ者である。苦しくないのだから。仏陀ですら、生老病死と言って、生きる上での四つの苦しみを説いたが、老いることの何が苦しみなのだろうか。死ぬことのどこに苦しみがあるだろうか。病は苦しい。生きることはさらに苦しい。それは、間違ったものを我として生きているからである。実在に生きれば天国、非実在に生きれば地獄。この天国と地獄を知覚するのは、段階の差はあれど、意識とマインドである。

段階つまり意識のレベルを高めてくれるのが、本物である。我々という偽物意識が、本物からの働きを効果的に受けるための手段が瞑想である。この働きは、高位のエネルギーの働きとして知覚されるようになる。であれば、それまでに我々が一致していた低位のエネルギーは偽物だったのか。ここでも多少、言葉の壁にぶつかる。すべてはエネルギーだが、純粋で自由なものと、神の意志通りに働いているものと、神の意志とは逆に働いているもの、この三つがある。言い換えると、最初のものが神(真我)であり、次がアートマであり、最後が我々を条件づけている物質質料である。この説明ですら事実ではないが、かなり進歩するまでは事実である。

人間に七つのチャクラがある。下の三つと上の三つを結びつけるのが太陽叢のセンターである。これと同じように、下の三つ(肉体・アストラル体・メンタル体)と上の三つ(マナス・ブッディ・アートマ)を結びつけるのが、太陽天使つまり魂である。人間意識を魂意識と結びつけるのがアンターカラナの前半、魂と一体化した人間を上の三つ(厳密にはその最低様相)と結びつけるのがアンターカラナの後半である。このアンターカラナと呼ばれる架け橋のようなものを構築するのが瞑想の主な役割である。アンターカラナの概念を知らなくても構わないが、知っていると作業が捗るだろう。理論を理解した上で安心して、何が起きているのかを恐れることなく、高位我と一致協力して構築に集中できるようになるだろう。そのため理屈を話している。到達した者には無意味な話であるが、到達する前の知的な人間には意味のある話である。

話を戻すと、本物は、今言った「上の三つ」を通して働き、これが魂と呼ばれる高位のセンターを介して、我々パーソナリティーに働きかけている。しかし、転生周期のかなり後半になるまで、人間はこのことに全く気づくことはない。人間意識であることが真に耐え難く苦痛になったとき、この世界を超越したいという欲求が、あらゆる低位我の欲求よりも上回るようになるだろう。このような人――第一段階のイニシエートは、確実に普通の人間生活に戻ることはできなくなる。あらゆる意味で耐えられないのだから。これゆえに、事は火急を要するようになる。見い出すまでは地獄、見出すならばおそらく天国であろうという希望を抱きながら。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りれば、「見出さなければ死ぬしかないと思った」。我々はこのような段階であろうか。もしそうならば、未来は明るく、その未来は「近日」である。

目次