聖者との交わり

退屈で面白身のない毎日。朝起きると苦痛。起き抜けの不快を忘れてもっと寝ていたい。しかし、楽しみがある日は、喜んで起きるのである。明らかに、自身の感覚の原因は自身である。マインドの態度、姿勢、解釈に由来している。ここに何かヒントはないものだろうか。というのも、つねに幸せでいてもらいたいからである。

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不快は喜びに変わる

起きて不快感を覚えた場合。平時から静かな精神であれば、その不快感からけっして目をそらさず、不快感をただ見るだけで、喜びに変わることを知る。もともと在った魂の喜びである。不快感がそれなりに強固であったとしても、ただ不快感とともに在るだけで、せいぜい数秒で溶ける。見るとは、何かモノを見るのではない。今回の例であれば、対象の不快感を捉えたまま、ただその感覚と一緒にいることである。ここには何の動機も批判もない。なぜなら、見ているのは魂だからである。

反対に自我で見るとき、不快感はより不快なものになる。魂で見ればエネルギーをフォースに賦課して引き上げ変性することになるが、自我で見れば、フォースとフォースがただ衝突するだけであり、自分が自分と闘っていることになるため、対象を強め、問題はさらに悪化するのである。結局は、不快感を純粋に見ているのではなく、不快感から逃れようとしているのである。この衝突の機微に翻弄されないために、我々はエネルギーとフォースの違いに習熟する必要があるのである。

息に習う

エネルギーとフォースの違いを示す簡単な例。吸う息があり、吐く息がある。どちらも息である。吸う息はみな同じでも、吐く息は人によって別のものになる。流入するエネルギーは普遍的だが、個人を通ると、その人なりの色に染められたフォースとして流出されるのである。

例えば肉体が不健康。新鮮な空気を吸っても、吐く息は臭いものとなる。例えば、日頃から他人を恨んでいたり、イライラしているならば、アストラル体とメンタル体が不健康。エネルギーは絶えず低位の波動に侵され、思いや感情は絶えずネガティブなものとなる。こういう人は歩く公害であり、周囲をも不幸に巻き込むことで悪循環を生きる。

聖者の息

聖者の場合、吸う息と吐く息に違いはない。あるのは表現の違いだけである。本質のエネルギーは歪められることがない。

例えば聖者に近づく機会があるとする。我々の精神が静かなら、すぐに聖者からの強力な波動つまりフォースが自身の諸体に働きかけ、即時に高位の意識へ引き上げるため、存在するすべてに愛や喜びや平和を感じることになる。ラマナ・マハルシはこれだけが真の力であり教えであることを主張したが、まだ静けさに反応できない人々が質問攻めをするものだから、仕方なく一時的な自我のための教え(それは本質的に間違ったものである)を言語や方法論で表現し、「私は誰か」と問うよう、つまり魂とただ一緒に在るよう導こうとした。

聖者が本物であり、諸体の質料を真に浄化征服し、光体であるならば、彼の肉体は汚れることはなく、吐く息も全く臭くはない。科学的に測定したとしても、汚臭を放つひとかけらの物質すら検知されないだろう。

聖者の諸体は、流入する高位のエネルギーを全く妨げない。それは自我がないからである。聖者は肉体を持つが、誰か特定の人格はそこにはない。だから高位のエネルギーの完全な媒体なのであり、いわば神の意志や目的がその伝導体を通して完全に表現されることとなる。この聖なる媒体になるため、我々は諸体に宿り、輪廻とカルマという一時的な錯覚を通し、諸体を統御する術を学び、質料の霊化に携わっているのである。この輪廻という過程は、決して個人的なものではなく、神つまり唯一なる全体の意志と目的のためである。

本来はすでに至福

聖者に遭う機会は普通ならないだろう。世の中に姿を現すことが稀だから。しかし、目をつむれば誰の内側にも等しく聖者がおられることを知るのである。どのような個人であれ、またどのような生き方をしてきたにせよ、その個人を生きないならば、個人は静かになり、内なる聖者との交わりを得るのである。これだけが真の教育である。真我だけが重要なのである。

瞑想が正しいものならば、万人にその効果は等しいものである。誰でも内なる聖者を見つけることが可能である。これが嘘ならば、書いている私は大変なカルマ的負債を積むことになるだろう。本人が体験してもいないのに、断言したり、知っているふりをしてはならないのである。その上で、私は絶対に可能であると約束する。だから、瞑想を諦めないで頂きたい。自我は瞑想ができないとか、失敗したとか騒ぐが、穏やかに無視して、周期の法則上、いいときもあれば悪いときもあるのが普通であることを知り、あの霊的な寓話であるウサギとカメを思い起こし、慢心や怠惰に決して揺さぶられることなく、自分が自我ではなく真我であることを知って、地味に、地道に、一歩一歩、毎日着実に、ゆっくりと融合を深めていって頂きたいと願うものである。

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