聖語

瞑想もしくは進化過程と呼ばれるものが、様々な物質と深く関わりを持っていることは徐々に明らかになることだが、自身の諸体における粗雑な物質の扱いに対し、その如何ともし難い強力さに対し、途方に暮れてしまうこともあるかもしれない。つまり、自身にはまだ統御できないフォースに対する激しい葛藤と苦悩である。

波動の安定化には時間がかかる。安定化の先には、新しいリズムの賦課が待っており、これにも同じように時間がかかる。このことを知り、効果を性急に求めない着実さがすなわち賢さであることを常に意識する必要があり、リラックスし、求めず、自身の現在に安らぐことが大切である。

ある程度の調整が得られたとき、瞑想者に聖語の使用とその正確な発音が伝えられるのは事実である。聖語つまり我々が基本的には諸体の調整において使用するOMは、好ましからざる形態や波動を容易に破壊し駆逐することを可能にすると同時に、新たな神性の建設のための真空と土台を提供させる。魂と一致して振動できるようになり、その位置から対象に向けて音つまり聖語を唱え焦点化させることは、自身をこえた高位のエネルギーの降下を可能にし、強力な効果を生じさせるものである。つまり、繊細かつ精妙な高位の波動と物質を目標とする体に与え、同時に粗雑で悪さをする低位の波動と物質を目標とする体から除去し追い払う効果を持つ。聖語を習得するようになるにつれ、音の科学に徐々に参画できるようになり、そのときに必要な和音や完全五度を発見し、発声することに習熟するようになり、進化過程つまり奉仕における技量拡張は大幅に向上することになる。

かなり具体的な例つまり個人的な例を挙げてみよう。時々、聖欲ではなく、その低位の合一解釈である性欲に関するひどく切羽詰まった真面目な質問が来るので、これを機に考えてみたい。性欲を克服しようとすることは、そのようなアストラル界のフォースに対して注目を与え、対象の力を強化し、余計に手に負えなくさせるだけである。確かに、肉の欲求に溺れることは、霊的な発達を著しく阻害する。男性よりも、女性の方が悪い効果が時間で言えば尾を引くかもしれない。交わった相手にもよる。取り返しのつかない結果を引き起こした事例を聞くこともある。しかし、欲望があるなら基本的に仕方ないだろう。禁欲つまり欲求のフォースを押さえつけ抑圧することには何の意味もない。それを思うがままに発散させることも無意味だが、抑圧つまり培養し爆発させるよりはましだろう。基本的に、愛欲ではなく、魂の、つまり一体性に基づく愛を動機に正しく生き、かつ神聖な思いで自身を絶えず満たしているならば、性欲は知らないうちになくなり、識閾下に落ちる類いのフォースでしかない。しかし、どうにもならない時期、例えば十代とか、健全な十代をカルマ的に送れなかった成人とか、自身の恥ずかしい獣性に対し途方に暮れる時期やケースはあるだろう。

そこで、性欲に困っている人に、聖語を提案することができるかもしれない。というのも、どうにかしようとして注目を与えるのではなく、つまりフォースにフォースを適応せざるを得ない段階のときは、高位のエネルギーを音によって引き込み、対象へと直接的に賦課する発声の技術の方が好ましい場合があると思うからである。やや不明瞭な言い方をするのは、間違った発音に伴う危険を私たちは常に考慮する必要があるからである。したがって、高位の波動と一致して振動できず、無闇矢鱈に発声することは控えなければならない。整列に近づくか、魂の位置へと多少なりとも意識を移行させられるようになったならば、正しい瞑想姿勢に移行し、背筋を伸ばし、可能な限り高位の意識領域から、アストラル体に対してはやや大きめの発声で、眉間のセンターを介して唱え働きかけるとよいだろう。自身つまり諸体の状態と発声ないしは発音、そして焦点化の態度が適切ならば、統御できない性欲のようなフォースですら、容易に溶解させうるだろう。それは悪魔祓いのように、唱えるだけで追い払えるだろう。

聖語は、まさに強力である。普通の人が唱えても何も起こらないが、瞑想者は、いずれ習得するようになり、音のテクニックに驚き、崇敬の念を抱き、神にお辞儀をするような恭しい態度で、聖語を活用するようになるだろう。しかし、聖語や呼吸法は、初心者には危険が伴うものである。関わらない方がおそらく賢明である。しかし、すでに魂と接触しているが、様々なタイプの統御できないフォースに絶望している人がおり、時として自殺しようとする人さえいるほどであるため、愛他精神をいかなるときも忘れることなく、自分よりも全体、内よりも外という愛と解放の気持ちを保持できることを前提に、聖語に関して控えめに記述するものである。

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