本当の幼年、私たちが真に子供であったとき、警戒を知らない時代があった。純粋さゆえの無警戒、記憶や知識が決して人を条件づけない地上の天上意識、知性も経験も過去も維持されながら、なお子供以上に子供であり、静かな喜びや嬉しさが支配する天真、この無色と純白がハートを通して蘇るとき、大人は驚愕しつつ、しかしこの感覚をぼくは覚えていると言うだろう。顔つきから邪まなものは取り去られるだろう。誰に対しても、何に対しても、純白すぎて警戒をする必要がなく、恐れがなくなるとき、これほど生は素敵なものかと感じると同時に、いかに大人としてこれまで恐怖心と警戒心を背負い生きてきたかを理解するだろう。それはもうかつての私ではない。両極端が出会い、より高い螺旋状にて、成熟が未熟を知り、成熟が維持されたまま未熟に帰ったのである。特質は白か透明。白は象徴的、透明は感覚的。自分でありながら自分ではなくなった意識、どのような陰惨な世界が映し見せられていても、それを見るまなこは子供のものであり、より赤子のものであり、事の善悪を知らず、知っているのは何もかもが素晴らしいのだというそれ一点。

何が起きたのか分からないだろう。私は維持されたまま、赤子のように新しい命として、嬉しさに呆けており、その聖なる未熟が心地よく、言葉を覚えていなかった頃のように、なにごとかを話すこともできはしない。ただただ、すべてが美しく喜ばしいことに気づいている状態、増幅しつづける嬉しさに心は絡めとられて、地上からは敵も敵意も消え失せる。ハートのブラックホールが邪まなものすべてを飲み込み、正邪は正だけになり、聖者もまた聖だけになる。全一体は善一体になる。

悪を表現する者を見るならば、ハートはときめく。愛の洪水がおしよせ、それは私のハートを通して別の私のハートへ通じ、その者ではなく、その者に取り憑いていた悪を浄め飲み込む。こうして聖事化は愛をばらまく。彼を通して流れる愛に彼は喜びながら、愛の目的、愛のまつりごと、愛が為さんとしているヴィジョンをまざまざと視覚的に捉える。世界がどうなっていくのかを彼は初めて知り、秘教徒が「大計画」と呼んでいるものと結びつけて考えるようになる。「これが神の御国か」と彼はひとりごちる。敵同士だった者たちが、何の腹もおべっかも媚びも世辞もなく、純粋に互いを愛し喜び合っている。誰もが永遠の現在に生き、分かち合われた生の瞬間を途絶えることなく新鮮に喜び生きているが、それは決して感情からではない。そこでは誰もが純粋な子供である。男も女も、また年齢も姿かたちも関係なく、神の愛が行き渡り、それが表現されており、彼はその光景を捉えながら、同時にそれを体験する。それは地球の若返りであり、聖惑星であり、いのちの蘇りである。

これを知るや、意識は惑星レベルに拡大される。視点は個人ではなく地球になり、それは神意識への参入であり、initiationである。

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