しばしば肉体的苦痛を観照することが私に起こる。なぜなら、快楽と苦痛を登録する肉体と意識という道具がまだそこにあるからだ。私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。少し前、私はその苦痛を観照していたが、あなた方がここに来たらなくなってしまった。人は意識の中に安定すると、ただ喜びだけでいっぱいになる。私はその意識に安定して喜びでいっぱいだったのだが、突然病気が現れたために苦痛がやってきたのだ。あなたが意識の中に安定して、どんな肉体的不調もないかぎり、どんな苦痛も経験しないことだろう。それが意識それ自体の特質だ。あなたは意識以前に存在している。その状態ではどんな快楽も苦痛もない。
ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」p.237
ここでいう意識とは、672夜が「魂」と呼んでいるものと同じものである。マハラジのように単に意識と言ってしまうと、通常の人は自我意識しか知らないため、その唯一の意識の定義から誤って考えてしまう。ゆえに分割して、肉体意識と魂意識といった具合に分けている。意識自体は同じであるが、何と同一化するかで意識が変わるのである。
我々が唯一知っている肉体意識や自我意識とは何であろうか。ただ、魂がマインドに注目を向け、マインドに条件づけられ、錯覚を受けている状態の意識である。これを仮に人間魂と呼ぶなら、人間魂は自身が肉体やマインドだと思っているが、成熟したときに疑いが生じて瞑想を始める。すると、人間魂は自身が魂であることを理解するようになる。人間魂は、自身が人間ではなく魂自体であることを、そのレベルでは「高位」と分割して思われる自身である魂からの働きかけによって知るようになるのである。言わんとすることが分かるだろうか。我々は最初から魂なのである。にも関わらず、マインドが支配権を握ってしまっていることが問題なのである。
この世は壮大な牢獄にして地獄である。そこから抜け出す方法を知らないままに、この事実に気づいてしまった場合、人は恐怖のあまり狂ってしまう。したがって、途中までは無知に助けられて道を進むものであり、途中までの影の救世主は無知である。
弟子たちは、自身が魂と接触したとか、魂と合一したとか表現するが、それはマインドの視座からのものである。マインドが超えられたとき、どのような二元も存在しない。そこでは、魂という概念も超えられて、ただ存在している状態、ただ観照されている状態があるのみである。それは人々が想像するような「一体」ではないが、翻訳するときは人々の分離認識を前提とするためにそう表現するしかない。実際は、どのような想像もそれは超えている。それは病気の肉体意識も超越するものであり、病気の苦痛もまた超越するものである。
病気という錯覚に負けて、病気を治そうと我々は思うかもしれない。瞑想者すなわち魂に到達している者ならば、病気を実際に治せるかもしれない。しかしながら、肉体が病気であるか健康であるかに関係なく、我々は魂であるゆえ、魂でありさえすれば、「喜びでいっぱい」なのである。冒頭のマハラジの文章にはいくつか読み方によっては意味不明なところがある。おそらく翻訳に至るまでの過程でおかしくなったのだろう。この喜びは、肉体の病気で失われる類いのものではない。魂である私は、肉体の病気に関して完全に無興味であり、あえて肉体の病気という錯覚を観照する必要はない。すべてが一体であるとき、病気もまた至福の中に溶け去るものである。決して真我つまり我々は病気にならないし、病気を知らない。もし自分が病気だと思うならば、注目が自分に向いてしまい、つまり分離した自己中心意識になり、たちまち至福も喜びも失われてしまうだろう。
我々は魂というよりも、名づけえぬものである。どのような名称も当ててはならない。どのような言葉でそれを語ってもならないのである。概念に限定した瞬間、マインドに屈従し、無知へと迎合し、真理は失われてしまう。この意識を言い表せないために、「無」とか「空」とかいう概念で示唆しようという試みもあるが、これをどのような形で想像しても虚しいだけである。頭とマインドで理解しようという気持ちがあるかぎり、我々は汚染された獄舎に限定されるだけであり、決して自由も喜びも解放もない。
神だけが永遠の奉仕者である。名づけえぬものへと意識が帰ったあと、たとえこの世の肉体が病気になろうとも、奉仕力が失われるようであってはならない。言い換えると、病気である自分という自己中心的な分離した考え方へと堕落してはならない。病気であろうが関係なしに、それまで通り意識は外に向かっていなければならない。この「外」の意味は紛らわしいため別の言い方をすると、すべてと一体の境地である。神における自由と喜びの境地である。普通の人は好き勝手にできることが自由だと思っているが、真の自由とは、無限という神の中に限定されることである。
病気の苦しみがあなたに分かるのかと言われた。なぜ私は同じ病気にかかっても苦しまないのか逆に分かるだろうか。錯覚ではなく、本物だけを観照しているからである。このようなテクニックは、すべて瞑想で習得されたものである。瞑想する個人の意図や目的と関係なしに習得されたものである。言い換えると、瞑想する個人意識に名づけえぬものが訪れたのである。それは最初から自分であったものである。見習いの弟子たちは、人間魂と魂を別に考えているか、別の概念で教えられている。彼が後に瞑想で見出すことは、そこには何の違いも差異も存在しないということである。
可愛そうなのは、普通の人間は、動物と同じように、病気になったらただ病気に苦しむことしかできない点である。ときどき、犬が病気になって大人しくなりぐったりして元気つまり元の気に動かされなくなるのを見る。人間もまた、自身を人間だと思うゆえ、肉体の病気が生じるとそれを経験することになる。経験する必要がないことが、もっと広く知られねばならない。肉体の病気は放っておいて、第三の天にて楽園に赴き、すべてのすべてと愛を分かち合おうではないか。愛そのものとして、すべてである我を愛し生きることで、またそれは外へと、無限へと、爆発的に拡大する意識そのものの特質の自然な状態であり、それはあの汚らしい沼や池に咲く蓮の花のように、どんな過酷な環境にあっても美しく咲き誇る真我で在ることの大切さを説くものである。
病気でも他人を助け続ける人が稀にいる。彼か彼女に聞いてみるといい。助けることで生かされていると答えると思うのである。その一方で、自分の病気のことだけしか考えない者はほぼ全員である。ここに無知があることを知っていただきたい。ここに真のテクニックが秘められていることを実証しなければならない。肉体の状態にかかわらず、神と神の意志は無限に奉仕である。このときだけが正常な生き方、生命の表現であって、自分の肉体の病気を治そうという考えはそこにはわずかであれ存在できないのである。それは肉体をぞんざいに扱えということではなく、自身と考えているものに縛られることなく、自己中心に陥ることなく、外へ外へ、ちょうど宇宙が無限に拡大を続けていると科学者が主張するように、無限に全我へと向かい続けることが神の意志であり、二次的に、神の意志に従う者は健康を得るのである。たとえいま病気でも、肉体が生きたり死んだりすることに惑わされず、あの偉大なる名づけえぬ者として、すべてを愛で包含しゆくならば、肉体は病気でも、彼は楽園に生きている。
書きながら読者の声が聞こえてくる。「そのような意識に我々は至っておらず、どのようにして至るのかを知りたいのだ」と。このような錯覚的疑念を溶かすために書いているのだが、あまりに自我やマインドが元気すぎて、まだ何かを得ようとしているのである。なぜなら、すでに得られていることを知ってしまうと、自我とマインドは死なざるをえないからである。自我の元気さは無視して、死のごとき瞑想の静けさへと帰ってもらいたい。この世では、健康な者が霊的な死を表現しており、死にゆく者だけが霊的なつまり生命を表現しようとしている。健康の意味、活用できる元気さの意味、エネルギーが本来向かうべき方向が自己中心ゆえに分からず、誤った生命表現に生きることが健康の証しだと思われている。未熟な者が金を持ちすぎると常に破壊に向かうように、未熟な者のあり余るエネルギーの表現はしばしば破壊的である。それは扱い方を知らないからである。我々は個人ではなく、そのエネルギー、生命の方なのである。
そろそろ長文すぎるとまた言われる文量になったかもしれない。しかし、どれだけ伝えられたのか疑問があるため、もっとあらゆる角度から書き、ヒントを掴んでもらい、これを読んだ後は一瞬でまた前の自我意識に戻るということがないようにしてもらいたい。人々は、自分でマインドを統御できると錯覚しているが、いかなる行為もこの世界には存在していない。例えばこの文章を私は読んでいると言うかもしれないが、そう思っているだけである。マインドが徹底して我々を騙しているのである。この偽物を黙らせるために、ただ死のように瞑想し、死にゆく者が死をある時点で受け入れるように、名づけえぬ者を受け入れてもらいたい。生命が撤退したとき肉体は死ぬ。マインドが静かになったとき真我は立ち現れる。そしてマインドを静かにさせたのもまた真我なのである。我々(マインド)には一切何かをする力というものはないし、自分でしていると思い込むことができるだけである。ここを頭で理解しようとすることで逃避せずに、脳とマインドを鎮めるもの――老人が「お迎え」と呼ぶものに相当する生や死の背後の力を、死の法則が訪れる前に我が内に引き込み、肉体に在りながら霊が表現されねばならない。霊つまり神の意志はこのようなものである。