奉仕はハート・センターを目覚めさせる特に優れた方法であり、服従は、魂のフォースの衝動に対する二つのヘッド・センターの反応を呼び起こし、それらを魂の認識の一つの領域へと融合する上で同じように有効である。これらの衝動の持つ力を理解している人が何と少ないことか。もし欲求を満足させたいという衝動が人間の形態生命の基本的な衝動であるならば、奉仕しようという衝動は人間内の魂の同じく基本的な衝動である。
アリス・ベイリー「秘教心理学・第二巻上」p.198
「服従」による頭部の二つのセンターの発達は瞑想で成熟するゆえ理解は容易い。しかし、正しい瞑想の結果すなわち正しい整列による正しい流入の結果による正しい流出という意味で、喜びに満ちた奉仕がその肉体人間を特質づけるようになることはあまり知られていないようである。であるならば、私は是非ともこれを理解してもらう努力をせねばならない。
普通の人間は、自身が、自身ならざる別の力に条件づけられていることすら知らないでいる。つまり、条件づける諸体のフォースに対して盲目である。結果、アストラル体の情緒的反応による感情的フォースに肉体が動かされたり、メンタル体の想念反応による想念フォースに肉体が動かされたり、実際はそれらが混じり合ったカーマ・マナスのフォースが通常は肉体を動かす主な決定要因になっているが、情緒であれ想念であれ、我々はそれらがただのフォースであること、特定の影響力を持つただの低級な力であることに気づくことなく、「これは腹が立つ内容だ」と思えばそのまま「怒る」など、四六時中、情緒反応と同一化することを欲している。それは、条件づけるフォース表現をすることで、源であるアストラル体やメンタル体のエレメンタルを満足させたいがためである。これは無意識状態もしくは自動人形状態である。だから、いくらこの世では頭が良くとも、条件づけるものに関して何も分からぬ場合、霊的観点からすれば寝ているに等しく、知的であるどころか著しく無知なのである。
瞑想は、このような条件づける力を、逆に条件づけてやろうというものである。このようにして、人は運命や出来事の犠牲者ではなく、その支配者になる。何事にも影響を受けぬ者になる。なぜなら、影響力であるフォースを統御できるからである。魂の領域では、人間意識が棲む三界のフォースは完全に無効化されるものである。魂で在るかぎり、個人からは自由であり、個人の問題からも自由である。不幸や不運が襲いかかろうとも、魂である者すなわちイニシエートは、一ミリも心が揺れ動くことはない。彼は肉体を纏っているかもしれないが、人々が出来事と呼ぶ映像やフォースの動きに対して感傷的にはならず観照的なままである。これが不動明王意識である。
この不動の魂が喜ぶのは、魂を通して流れる神の生命エネルギーを純粋に表現するときだけである。これは魂が「する」のではない。ちょうど人間の肉体がアストラル界のフォースに動かされるように、霊的トライアドを介したモナドのエネルギーが歪曲されることなく、神の意志が霊的な愛と知性を通して表現されることをただ喜ぶのである。ここに「する人」はいない。神のエネルギーの美しい循環と、その結果としての表現が見られるだけである。意識は、自身が受け持つ媒体を通して神の生命が流れ純粋に表現されることに観照的であるが、きわめて喜びと至福に満ち満ちている。したがって、奉仕を行うのは神であり、奉仕とは神の計画への奉仕であり、それを実現させるための力とは神の力である。これを理解したとき、神の命と力と奉仕を受け入れ表現できることで、人々が自分と思っている媒体は生かされており、また生きる中で喜びを感じることができ、まさに奉仕によってしか知ることのできない至福という予期せぬ報酬に絶えず満たされるようになるのである。
私自身、奉仕めいたことをしているとすれば、信用が置けると思われる団体に毎月いくばくかの寄付をして、水や食料や医療などの基本的な物資が不足している人たちの助力をしている程度であり、これらの動機は、基本的物資は自由競争に任せるべきではないという思想と、持てる者が持たない者に助力することは、ある種の道義であろうという思想から来るものであり、とても672夜様の仰る「自分はいいから他の人の苦しみのためだけに生きようという意志」とは程遠いものです。
読者の質問から
ここは大きな分かれ道である。なぜ、「自分のことなどどうでもいいから」という諦めが生まれたのだろうか。当時は、自分のためだけに生きるから苦しいということを半ば本能的に理解し、自分を諦めたとき、同時に重荷も下ろされて、まさに自身から解放されることを理解したからであろう。文章で見れば、「自分を諦めるときに自分からは解放される」という論理は当たり前に見えるが、なぜ誰もそれができないのだろうか。これは熟考に値するものである。
当時と今との違いは、「分離した自分」という限定からは意識がすでに自由である点にある。私は下方を見ていない。分離した肉体人間や個人を扱ってはいるが、それに対しては無興味が貫かれている。関係ないものに対して、どうして興味が持てるであろうか。通常、「私=自我」という意識であるが、この自我がより大いなる力に埋没した場合、「すべての魂=私」になる。したがって恐れはなく、「対象」というものがなく、まさしく「全我」という真我が顕現しているのである。であるならば、普通の人間が自分を個人だと思い個人にのみ自己奉仕するように、すべてが私になるならば、すべてに自己奉仕することが、人間の分離意識からすればより高位の自己奉仕になる、というだけの話である。
人間は、自分を特定の個人に限定している。そのうえで、解放を願っている。ならば方法は簡単ではないのだろうか。それは、「自分を諦めるとき自分からは解放される」というシンプルなものである。はっきり言うが、限定された小さな自分だけへの自己奉仕は、苦痛と不幸にしか導かない。それを証明もしくは照明する事例は、己にのみ生きている他の者たちを研究すれば明らかなはずである。自縛によって自爆を自らの運命に変えているではないか。「全体で一つの自分」だということが分からないからそのような利己主義という自爆をあえて経験し、その無知の苦しみから「一つなる生命」という教訓を人類は学んでいる最中である。自分だけに生きることの苦しさがまだほとんどの人間には理解できないのである。その自分を放棄すればいいのに、と思うのだが、なぜか我々は死ぬ定めにある一時的な自分を愛し、執着している。この無知は、明らかに知的怠慢ではなかろうか。その意味で、自己責任ではなかろうか。もし自分を捨て去り、結果として明け渡すということが起きるならば、あらゆる責任から自由になるだろう。いかなる自己責任も存在しない一なる神の世界に溶け込みサット・チット・アーナンダを知るだろう。
なぜ我々は自分を手放せないのだろうか。あるいは、なぜ私の場合はその個人が手放されているのであろうか。いちいち言いたくないが、自慢しているつもりは全くない。よくよく観察してみると、やはり意識の焦点が違うだけである。この焦点の違いを自然に生み出しているのは、魂のエネルギーではなく、ブッディの要素が強いトライアドのエネルギーである。こういうことは、通常、あえて概念で分割して考察することがない。「意味としての理解」を意識自体は必要としないからである。しかし具体レベルにまで落としてあえて説明するならば、個人意識や個人への執着を放棄させる力は、魂のエネルギーと言うより、ブッディを含めたモナドのエネルギーと言うべきであると思った。あるいは、解放においては魂との接触では不十分であり、融合し、アートマ・ブッディ・マナスという高位のパーソナリティーである霊的トライアドを介したモナドへの没入が必要である、という言い方に変えねばならないと思った。分かりやすく言い換えると、純粋な意識(超魂)に意識(人間魂)が安らぐのではなく、意識以前のもの(生命)に意識は安らぐ必要がある。
とはいえ、これより遥かに低い個人の意識の時期に、私は「もう自分のことは諦めよう」という、暗いが晴れ晴れした意志が芽生えた。分離した自我意識であったにも関わらず。まだ自分と他人がいると思っていた時期に、そう結論づけたのである。これは、自分だけに生きれば人生は辛いが、他人に生きれば自分の重荷は消え、人生は楽になるどころか美しくなりうることに気づいたからであろう。あまり覚えていないと言うより、思い出す力を拒絶する力の方が強いのである。記憶の障害めいた話を最近の記事で書かされたが、私は長年の瞑想により、過去や未来などの想念や記憶ではなく、この永遠なる現在すなわち存在自体に意識が自動集中されるよう、引き戻されるようになっている。この眉間の内奥から開かれる広大な際限なき至福の領域――存在の世界が意識の住まいになっているゆえ、あえてそこから意識を外さぬかぎり、至福というものが途切れることはない。だから、頑張って当時のことを思い出して解説したくとも、それをさせない力の方が手綱を握っているため、できないし思い出す必要もないことが理解されるばかりなのである。このような描写は奇妙に見えるであろう。しかし「永遠の今」は、あらゆる既知を超えて、無限に至福である。
その力に没入するあまり、これ以上は書けなくなったため終わる。
