話しても無駄なことではありますが、そのときの結論といいますのが、「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である」……そのときに思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。”ない”ということが、わかったような気がしたんです。今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。……とたんに、森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が、のぼった太陽にキラキラ光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地上の天国だったということを感じたんです。自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこにはもう実体というものが厳然としてあった、ということだったんです。
福岡正信「わら一本の革命」 p.8
むかし、様々な苦痛があった。あると感じ、あると信じていたが、不意に内なる意識に引き入れられて、何もないことを教えられた。しがみついていれば、そこには何かがある。手放してしまえば、そこにあったものはもうない。必要と思われている多くのものが、実際は自分が作り上げたものであり、何かを求めしがみつくという必要性の錯覚が、苦しみの原因であり、いま、まさに即時に至福であるという、本来の自然性、真我の顯現を妨げている。失われると分かっているものに、何一つ価値はない。まぼろしを、あたかも実体であるかのように思い、ないものに価値を与え、ないものをあると認めそれを前提とする生き方は、自然つまり法則に反しており、人間があると思っているものは、マインドの作り事であることに気づくために、われわれには瞑想が与えられている。
世の中には、あえて何かを捨て去り、世捨て人になったり、ミニマリストになろうとする人たちがいるが、手放すという意味を間違えているのではあるまいか。捨て去るべきは、そのような行為をする「私」である。外の何かを捨てるのではなく、自身が独立した行為する実体であるという想念から自由になることで、低位我は高位我を認識するようになる。世の中の人間のほとんどが、高位我を認識していない。低位我で生きるならば、必要なものが増え、ものによって豊かさを測り、資産や地位によってプライドを満足させねばならないだろう。この無知に気づくとき、人は外の世界に求めるものがないことを悟る。こうして真の私、真の自然に還るようになる。すると外の世界とは、まだ迷っている兄弟姉妹たちが真我に目覚めるための手伝いをする場でしかなくなるだろう。
瞑想が上達するならば、低位我の感覚はなくなり、高位我の意識に自在に入れるようになる。すると低位我というものは存在しておらず、単に想念であったことが分かる。想念が、想念をしたり、想念をもったりしている者、つまりはこの肉体に生きる自分という想像に甘んじ、その虚偽を前提に行為をしていると錯覚するとき、カルマは生じる。このカルマがわれわれを地上に縛り付けている。しかし目を瞑るならばどうだろうか。真我はカルマから自由である。存在するのは真我であって、それまでの私は消え去り、新しく素晴らしい意識において、最初からこの私でよかったのだという無為自然に命は輝きはじめる。この簡単な話を、苦しんでいる兄弟たちに届けたい。楽しんでいる人には届かないが、苦しんでいる人には届く可能性がある。瞑想を続け、低位我の要求や必要性を本物であると考えるのではなく、高位我に喜びを覚え愛着を持つようになるならば、やがて苦しみや心配や恐怖といったものは超越される。地上に天国が訪れるのである。そのとき、天の国とは私のことである。