人間は「気力」を使って生き、行為しているが、超人は、気力とは関係のない、気力の背後の力と一致しており、超人の媒体を生かし、動かし、存在させているのは、人間が知っている力の背後の普遍的な一箇の力である。たとえば、私のことを人は肉体だと思っており、これを書いている人がいると思っている。ゆえに、この著者は一人なのか、などの質問が来る。その観点に合わせて媒体は答え、一箇の肉体を通して書かれているという意味で、一人であると答えるが、実のところ、その媒体を通って動かしている力はもはや個人の力――つまり気力のような個人的なものではない。もし気力を使って媒体がこのような文章を書いているならば、彼は疲れるだろう。書いた後に多少なりとも疲労するだろう。しかし気力とは関係のない力がこれを書いているため、意識が疲労感というものを覚えることはない。疲れるのは個人であり、個人という錯覚によって神から遠ざかるときの「無理が祟る」ときの現象が疲労である。無理とは、理が無いことを意味しており、神の意志や法則から逸脱したときのことを指している。無理がないとき、人間の意識は決して疲労を感じることはない。しかし気力のような無理が行われるならば、祟られ、疲労するだろう。彼が知るべきこと、あるいは疲労という苦痛が教えていることは、その力は間違っているということである。気力と関わらないとき、その背後に神の力が存在する。この力におのれを明け渡したときの状態を、自然というのである。
もっと具体的な例がいるだろうか。たとえばこのような記事を人間が書くならば、書く内容を彼は考えるだろう。私の場合は何も考えずに書いている。人間が気力と呼ぶ力ではない力が書かせているだけであり、基本的に私自体はそれを見ているだけである。したがって、書かれているものを見ながら、その書かれている内容から知らなかったことを知るということすらある。しかし気力で人が書くならば、それは自分が知っていること、自身の知識の中からや、自身で考えられたことが書かれるため、疲労するだろう。あるいは、書くネタに困るだろう。頭で考えて書くならば。
要は、この現象の世界で媒体が書いているように見られるときですら、私はその行いに関与しておらず、いわば瞑想状態のままである。それは、人間が知っている気力のような力との交わりが一切ない状態である。気力から自由であるときのみ、神の力が理解され、それまで自分と思われていた道具を引き継ぐのは、その気力の背後の純粋な力である。言い換えると、フォースではなくエネルギーである。無理ではなく自然である。手動ではなく自動である。そして、私自身はいかなる力や行為とも無関係であるが、同時に、いかなるものも私である。これを表す言葉は「孤立した統一」である。
人間は媒体を自分と思うゆえ、他の媒体つまり他人を見たとき、それが別の個人だと想像する。それは、世界の中に私が存在すると考えている分離意識の特徴である。世界が私に包含される一体意識であるならば、この世とか、見られるものとか、人々が存在すると思っている万物とか、そのような架空のまやかしとは何の関係もなくなるだろう。人々が「全て」と思うものの背後に存在するのは真我であって、それは私である。人間は世界の中に存在し、そう思うことで世界から影響を受ける弱き犠牲者として恐怖に過ごすが、意識がこのような錯覚を神の力によって超越させられるならば、それがたとえ全宇宙であろうとも、私の中の話であり、話自体は実在ではない。あらゆるものの根源が真我であり真の実在であるが、実際は、「あらゆるもの」というものが、そもそも存在していない。存在しているのは真我だけである。これと「神のみぞすべてなり」は同じ境地を示している。したがって真我が理解されたとき、世界は超越され、あらゆる恐怖もまた超越される。
ある質問者がマハラジに、なぜ悟ったと言えるのかと聞いたとき、なぜなら私には恐怖がないからだ、と彼は答えている。あるいは、イニシエートの特徴は無恐怖であるとジュワル・クールは述べている。悟った者とかイニシエートとか、そういう「者」がいるのではない。ただ真我のみが在ることを意識が理解する、あるいは、魂が霊を大なり小なり理解させた意識が存在するだけである。本質は、根源においては一体であるが、顕現においては分離や差異やいわゆる進化段階の違いがある意識を通してこのような世界で働く。そして働くときの力は、顕現においては、顕現の方の意識の段階に応じた質と量しか媒体にその力が流れることはない。たとえば人間という意識段階ならば、同じ力が流れていても、無知によって歪曲されるため、純粋な力も彼においては気力になる。精神力や努力になる。人間の意識が超越された意識であるならば、そのような歪曲は存在せず、ただ神に由来する背後の力がいわば行為者になる。それゆえ、いかなるカルマも生み出さないようになるのである。
いわゆる輪廻転生を繰り返す意識もしくは夢は、無知によって、不必要なものを抱え、分離して、唯一なる神の力や生命を、個人的に活用しようという誤解に条件づけられているために存在する。象徴的に悟りとかイニシエートとか呼ばれる意識段階から物事がありのままに見られるようになったとき、最終的な解放のために、彼はいかなるカルマも生み出さないことを証明しなければならない。いま人間は、分離していると考える個人意識であるゆえ、常にカルマを作ったり相殺したりを繰り返している。この「考え」を生み出す頭やマインドが個人によって利用されなくなったとき、彼は個人の意志や、個人の力などから自由になるだろう。自由意志から自由になるだろう。そうすることで、カルマからも自由になるだろう。自由意志とは名ばかりで、実のところは牢獄であり、カルマという罪作りであり、ゆえに全ての人間は自身の自由ゆえに束縛されている。個人の恣意性を統御し規律をもたらすのは神の意志だけである。そして神の意志は、個人の意志を放棄させる力であるとともに、個人の意志がなくなった後にその意識を引き継ぐ新しい力である。
我々は、考えることに逃避しすぎている。しかし瞑想は、考えることを放棄させるものである。放棄させる力と交わらせるものである。すると、気力など個人の苦痛に満ちた力はいらなくなり、力が行う行為の責任が自分であるという錯覚からも自由になり、分離した個我意識という牢獄は、もはや何の経験も贖罪も提供することはなくなり、したがっていつまでも投獄されている必要性がかならずしもないことを知り、誰にも頼らぬ瞑想、すなわち外的な師ではなく内在の師だけに先導される喜ばしい瞑想に目醒め、いかなる知識も考えも不必要だったことを知り、何も考えず、しかし意識はなお鋭敏なままに、世界の中の孤立した自分という空想から自由になってもらいたい。個人が個人から自由になったとき、神だけが実在である。神以外にいかなる自由も存在しない。
