苦悩の果実

苦悩する生涯がある。ありふれた幸福すらその生涯には訪れない。「なぜかくも自分だけが」と我々は思う。激しく救済を求め、どこかや何かに答えを見出さんともがくが、苦悩の原因となっている事象がいつ終わるかは、その定められた宿命に関することであり、我々がどうこうできるものではない。通常、苦悩の原因を解消するために、我々は必死の努力を行うべきだと考えられている。貧乏ならば金を、非力ならば力を、弱ければ強さを、醜いならば魅力を、失ったならば取り戻すことを、我々は努力や意志や勇気によって克服し勝ち得なければならない自身の課題であると見なす(これは自我の隠れた喜びである)。転生周期の大半はその種の思想を余儀なくされるが、終盤つまり瞑想に熱心に取り組むような一連の生涯においては、これは全く当てはまらない。

苦悩は低位我に関係している。それは個人のものであるが、瞑想は個人から意識を解放させるものである。不幸が起きれば嘆いていた弱き者も、ひとたび高位我と意識を同調させ始めるや、生きる世界は一変し、魂として個人に関わらないことで苦悩から自由になり、祝福が訪れたことを知る。彼は静かな喜びに包まれ、彼女は向かうところ敵のない愛に抱擁される。すべてが美しいとみなされるようになる祝福。これは何なのか。調べるならば、わたしじしんが祝福であったことが知られるだろう。元来そうであったもの、永遠にして不変のものである普遍に人は安らぐすべを体得する。彼は融合する必要があることを理解し、彼女はもはや自身が女でも想念でもないことを理解し始める。長き苦悩の果てに、忍耐の果実の収穫が訪れる。それまで人は苦悩の意味が分からなかったが、新しい意識において、彼女はそこへ戻るためにすべての苦悩が必要であったことを知る。こうして意味を知るとともに意味の世界は卒業され、存在の世界が幕を開ける。もはや何もしなくていいのである。存在は行為ではなく、実在に別の主は存在しない。低位我は高位我を知り、つまり三は二になり「I AM THAT」と言う。最後に二は一になり「I AM THAT I AM」と言う。

ここに至るまで、蓄積されたカルマを処理するための辛い経験の周期がある。今この時期を過ごしている兄弟方に何が言えるであろうか。その周期に対して何もすることはないし、何もできないと言うならば、それは祝福ではなく冷淡な意味へと解釈されてしまうだろうか。このような時期は、通常は忍耐と諦念を学び習得するものだが、真に瞑想するような生涯においては、低位我が学ぶ忍耐や諦念ではなく、高位我として低位我から自由になる技術が学ばれねばならない。これだけが脱出経路である。低位我で何かを模索する時期は終わり、高位我に低位我を明け渡す時期が始まらねばならない。瞑想自体がその方法である。瞑想方法ではなく、瞑想自体である。なぜなら、瞑想しているのは高位我だからである。最初は低位我で瞑想が開始されるが、徐々にこのことを学び、明け渡す理解の過程、つまり融合過程を知る必要がある。救済するのは内在の魂である。度重なる救済の経験が彼への愛着を育てるだろう。そして、彼(高位我)が私であることが理解され出し、そのとき始めて、私は彼(低位我)とは関係ないと、逆の立場から言えるようになる。つまり、それまでの世界とは無関係になり、孤立することで統一され、この融合意識において、ちょうどラマナ・マハルシが言ったように、「世界のことは世界が面倒を見る」ことを理解する。これは現実逃避でも自分勝手でもない。知恵があらゆる個人を消滅させ、すべてが一体であり、すべては一体であるその一自体つまり世界の主のものであることが知られるからである。したがってキリストは次のように言わざるをえなかった。

信仰の薄い者たちよ。『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

マタイ6:31

あえて言い換えると、低位我や低位我の求めるものは世界に属し、低位我は何よりもまず高位我を求めるべきであり、融合したとき、すべては与えられていたことを知る。ゆえに世界について悩むだけ徒労である。――瞑想者は、そして、低位我や世界が実在ではないことを見い出す。真我つまり神の国と神の義だけが重要であることを悟る。それはわたしじしんなのだが、霊的なメカニズムが整うまで、それが感じられないところに困難と試練がある。だから、自分のことは早々に諦め、他人の助力に生き、いつであれ正しさを表現できるよう、瞑想生活で諸体の精製に励み、兄弟姉妹の役に立つことで、徐々に自身の波動を高めることである。このようにしてメカニズムは自然につまり安全に発達する。反対に、低位我の利己的な欲求から意図的にメカニズムを発達させようと試みるならば災いが起きるだろう。だから、様々な能力が開発される前に、利己主義は全滅していなければならないのである。そして、全滅へ追いやる破壊神が真我である。偽我で偽我をどうにかできるものではない。まず神の国(魂の王国)と接触し、神の国の住人となる(融合する)ことで、神の義(魂を介した霊の目的)は遂行される。

目次