苦闘を伴う探求の終焉
多くの弟子たちが苦闘している。苦しみながら道を歩んでいる。我々は、この時期が一時的なものであることを知る必要がある。瞑想で真の自己と接するようになるにつれて、非自己に対する「聖なる無関心」が発達する。それは、それまでの非自己とは自分が関係がないという感覚・意識を伴わせるものである。かくして、個人的な反応との同一化がなくなり、よって個人的な反応がなくなるということは、苦しみもまた存在しなくなるということに希望を抱こうではないか。現在はまだ苦しみを伴うであろうが、もう少しである。自身の発達に関してはあまり考えず、ただ無欲に瞑想を続けることである。この瞑想によって、まさに真の自己を知ることを可能にさせる内的なメカニズムが発達するのである。
霊的な正しさの意味
人格の陶冶は、真我を見出すこととは何の関係もない。なぜなら人は、人格の正しさがどういうものかを知らないからである。つまり正しく生きるとは、正しさを知ってこそ可能になるものなのだが、われわれのほとんどが、正しさを、この世の道徳や倫理と関係づけて考えている。しかし、それらは霊的な正しさとは関係がないのである。
真我と波動的に一致しているかどうかで、正しさとは測られるものである。言い換えると、唯一なるエネルギーを、人間の三重の諸体がどれだけ誤用や歪曲することなく、より純粋なままフォースとして表現をしているかどうかが、霊的な意味での正しさの度合いなのである。よって、正しさを知らない人格の陶冶を人々は行おうとしているが、これが誤謬であることが知られるだろう。このような個人的な目的のための行為を続けているため、「発達しゆく自分」という理想の自我に生き、真の正しさとは波動が一致せず、内なる本物は見出されぬままなのである。
グナの視点に見る純粋さ
個人とは、肉体・アストラル体・メンタル体という三位による統一体である。人格の発露である思考、言葉、行為の正しさは、これら三つの体の純粋さに依存している。純粋さとは、三つのグナの概念で言えば、諸体からラジャスとタマスを除去し、サットヴァだけにすることである。瞑想後に、非常に純粋な精神に生まれ変わったかのように感じられることがあるだろう。それは、サットヴァの輝きを肉体脳が知覚したときに起こるものである。
質料の視点に見る純粋さ
また純粋さとは、諸体を組み立てている材料である質料の問題である。平均的な探求者は、第四亜界の質料で構成された諸体の意識である。彼らは、第五、第六、第七のそれぞれの亜界はクリアしている。そのため人類の中では明確に発達しているのである。この第四亜界の意識は、第四光線がそうであるように、苦闘の意識である。というのも、七と六と五という大衆意識でもなく、三と二と一という霊的意識でもなく、そのちょうど中間の意識であるため、大衆的なものに帰ることもできないが、霊的なものの確証も得てはないという暗闇を一時的に体験する時期だからである。よって、この段階の意識たちはだいたい孤独なのである。彼らが瞑想によって、諸体に第三亜界の物質を一定割合組み入れることに成功したとき、第三亜界に存在している魂が見出される。
高位亜界の物質の組み込み
これは、高位亜界の存在が、静かなる瞑想中に、その組み込みを可能にさせる奉仕をわれわれに行ってくれると考えるとよい。この高貴なる作用は、最初は無意識の内に進められる。こうして物質と意識が純粋になるにつれて、それに比例したものの知覚が始まるのである。したがって瞑想を正しく続けていればある程度は自動的なことであると体験的には思う。ここで、前回の記事で瞑想が「他力」であると書いたが、おそらく補足が必要である。
瞑想の他力性
これは単純に意識の焦点の問題である。個人意識から見れば、ラマナ・マハルシを言葉を借りれば、「真我探究で起こることは、『私』という想念が消え去り、探究を始めた『私』ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである」。この『別の何か』が後の面倒を見る。こういう意味で他力である。それは、人間というフォース体からすれば、相対的に純粋なエネルギーであり、純粋な存在、純粋な意識である。これらが実感されるのは、フォースとエネルギーが融合したときである。そのとき、われわれがその純粋な力そのものになるのである。したがって、その意識においては何もする必要はなく、「する」ということ自体が存在せず、それは「存在の状態」なのである。
長年の瞑想の意味
また前回の記事で、「長年の瞑想で静かになる」と言ったが、この「長年」という言葉のイメージに意気消沈を覚えると言われた。こう考えてほしい。「長年の睡眠」と言うだろうか。睡眠なくして生の活動ができている人はいない。よってエネルギーを充填するため、疲れたら喜んで幸福のうちに眠るだろう。しかし寝すぎると浅い夢見の状態になり、結局はそれ以上寝られない地点に達し、起きて活動することになる。
こうして、すべては呼吸のように、リズムというものがある。睡眠で蓄えられたエネルギーは日常で使用され表現される。瞑想で蓄えられたエネルギーも何らかの奉仕に使用される。そして有限であるフォース表現が終わると、また息を吸い込むように、瞑想に入らざるをえなくなるだろう。これは万物に共通のリズムである。したがって、何かを求めるということがなければ、瞑想は睡眠と同じくらい、あるいは睡眠以上に重要な生の幕間であって、これを時間で考えると途方もないというイメージによって意気消沈するのだろうが、正しい瞑想を行うかぎり、それは全く生命活動の一部でしかない。したがって問題は、存在の状態を知らないことによる時間の感覚であり、未来という予測による気の遠さであり、魂という存在の状態は永遠なる現在しか知らないため、外的な世界の未来ともまた何の関係もないのである。
われわれは、期待というグラマーから自由にならねばならない。下の動画でブラヴァツキーが言うように、「条件づけられた存在から自分自身を解放することが、人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において行為は役に立つ」。瞑想で行為者というものが想念でしかなく、実際には存在していないことを理解するならば、誰が何を期待するというのだろうか。起きることが起きるだろう。しかしわれわれの本質は出来事から離れて超然と実在している。