人生の多くは葛藤であり、誰かや何かとの比較であり、競争と闘いであり、チャレンジとサバイバルである。人が成熟したとき、これらはただの苦痛になるが、そういうものだとされている。人生とは人が生きると書くが、これが不幸の原因である。人生は行為であり、行為の主は私である。私は分離した個我であり、独立した単位である。行為すること、努力して成し遂げること、自身の足跡を残すこと、歩みをもって自己の存在意義を弁護すること、このような歪曲された目的のために人は生きており、これらいずれの行為も調和を乱す者、つまり個人の生き方である。人格は別の人格と相容れないだろう。気が合う者ともいずれ意見の対立に陥るだろう。親子ですら口を利かなくなり、所詮は他人と認める日が来るかもしれない。おのれを主張する者同士が調和することはないだろう。人格は非人格に席を譲らねばならず、行為は存在に席を譲らねばならないことを、人は認識するために行為している。
人が生きることが人生ではない。この意味を知ることで我々は解放されるだろう。すべきこと、といった重荷はなくなるだろう。これは逃避ではなく知性である。人は「あるがまま」と言うが、一度も「あるがまま」を知覚したことはない。だから「あるがままでいよう」とする。それはあるがままからの逃避行為である。人格は自然の産物ではなく人為的な産物であるため、自然に反する動きに立脚している。人格は抵抗である。人格は神性の否定である。行為は存在の否定であり、生命への反逆である。人生が神生になるとき、行為よりも存在が美しくなるだろう。美徳は人格に属さず、存在のことを意味するようになるだろう。
太陽がなくなるならば人は全滅するが、太陽に養われつつ、人は太陽を風景の一部と軽んじている。このように、人格を有しないものを人は理解しない。もの言わぬもの、意思を表明しないもの、つまりは自然、これを人格は決して理解できない。なぜなら、人格は自身の不自然性しか知らないからである。自然に人は生かされながら、人類は惑星の主であるかのように好き勝手に振る舞っている。自然と調和せず、不自然をばらまいている。その結果が災害である。それは天災ではなく人災である。人類が表現として排出してきたフォースの結果である。寄付やボランティアは役に立つが、対処療法である。なぜなら、また災害は起こる。何が災害の原因かを主観的に知るまで、つまり天災が人災である所以を突き止めるまで、人類は被害者を演じることになる。起きることはすべて我々の責任である。最も重視されるべき奉仕は、自身から人災の原因を始動させる要素を除去することである。それは人生ではなく内在の神性を生きる神生を見つけることである。
人類の瞑想とは、何が自然で何が不自然かを識別する試みである。別言すれば、自然のエネルギーと個人のフォースを識別し、本来の自然な流れに自身という歪曲され誤用されたフォースの束を従わせようとする試みである。これが融合である。人格という無知を、被人格という知恵に溶け込ませることが調和である。すると、あらゆるものは私である。どんなものも、私である。この意識を通して人は生命を知るのである。ここに人生という錯覚は終わりを迎える。生きているのは生命である。形態を活気づけ、それそのものでは死物である形態を有用な道具と成しているのは、生命である。そして生命が真我である。したがって、意識は生命を明らかにするが、生命は意識と何の関係もない。これは難解な話である。
自然や生命は人格ではなく非人格である。一方、我々は人格である。この人格的なものに反応できなくさせるのは、魂である。例えば、人は幸福なら喜び、不幸なら悲しむ。気分がよければ楽しく、気分が悪ければ破壊的になる。相反する極を行ったり来たりし、生の全体であれ小さな一日であれ、上がり下がりのジェットコースターをひたすら生きている。瞑想者の態度はどうか。何が起きても変わらない。褒められると人は喜ぶが、瞑想者はなぜその者が褒めたかを知的に読み取ることはあっても、反応はない。誹謗中傷されると人は怒るが、瞑想者はその者に愛をもって応じることはあっても、眉毛がぴくりとも動くことはない。なぜなら、同じ世界に形態や肉体は存在しているように見えても、瞑想者は人ではなく生命を生きているからである。したがって、外的事象とは何の関係もなく至福である。それゆえ、瞑想する彼や彼女は世界に美を見、不完全の背後に完全性を見る。彼らは以前は人格であったが、人格を犠牲にする魂の生き方を通して、非人格の自然や生命と調和したのである。
非人格より人格が優勢な時期、人は人格の不完全さを人格で改善しようとする。そして人格は拠り所を必要とする。あるときは理想、あるときは座右の銘、あるときは師の教え、といったかたちで自らを支える土台でなんとか持ちこたえる。人格を放棄することを覚えることである。かつて人格が優勢だった時期、意志や忍耐や諦念など、自身を支える言葉がいくつもあった。つまり想念が頼りであり、マインドをマインドが支える工夫が人生であった。マインドを超越した者が内在し、低位の波動つまり人格に生きないことで波動を高め、彼をわが内に知覚できるようになることを知り確信できていたならば、波動つまりエネルギーやフォースといった線でもっと知的に歩みが進められたであろう。マインドがマインドに頼る必要がないこと、不自然が頼るものは自然でしかないことを知っていたならば、探求は楽しく速やかなものであっただろう。これからの時代、苦闘ではなく、喜びが教えの基調になるだろう。自身の修行ではなく、全体への愛が喜びの希望になるだろう。偉大な存在が言ったように、「魂以外に重要なものはなく、長い目で見れば、奉仕以外に重要なものはない」と、愛が語る時代が来るだろう。