薪をくべる

いっそのこと世を捨ててしまおうか。これまでのしがらみを全て断ち切って、ひとり山にでも逃れてしまおうか。社会に頼らず、社会に属さず、誰と関わることもなく、自給自足を営み、瞑想修行にひたすら明け暮れようか。――こういう人を何人か見てきた。愛の外道という記事で次のように書いたことで、何人かの怒りを買い、また何人かを困惑させてしまったようである。「個人の責任を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか」。冒頭で話した世俗からの逃避、社会における個人的責任の放棄もまた、私は正当化しているというのだろうか。

まずはさておき、煩わしい人間関係を断ち、物質主義社会に反旗を翻し、ちょうどヘンリー・ソローのように、森や山に逃れ、全くひとりで生きていこうとする人たちには、だいたいパターンがあるようである。テントや小屋の類いで棲家を確保したならば、次は火が必要である。雨露や寒さをしのぐにせよ、動物や植物を安全に食べるにせよ、清潔な水を飲むにせよ、捕食動物から身を守るにせよ、火の確保が必要である。次は食事である。畑を作る者、川で魚を釣る者、山菜や植物を天然の食と薬に変える者、様々だろう。衣食住を安定的に満たす仕組みを構築するまでは、まだ何とかなるかもしれない。多くの人が脱落するのは、その後の孤独である。生きるための最低限のものが揃い、労働よりも暇を持て余すようになると、一日が長くなる。考える時間が多くなる。瞑想三昧に憧れた者も、妄想三昧になる。そして、全き孤独のなか、凍えんばかりの疑念や疑問が身を貫くようになり、「この生き方に意味や価値はあるのだろうか」とか、「間違ったことをしているのではないか」とか、自信を失い始める。一人の孤独より二人の孤独がよっぽど辛いと言うが、それが甘えにすぎないということを身を以て感じるようになる。人は、人との関わりなしには生きていけないように出来ている、そのような結論に到達する。これが自我である。自我には、長期間の完全な孤独はほぼ無理である。

ここで冒頭の文章――「個人の責任を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか」を次のように言い換えよう。「自我を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか」。私が言った「個人の責任の放棄」とは、自我を抱えたままの義務からの逃避ではなく、責任を所有していると考える自我や行為者意識の放棄のことである。私は、心を病みながらでも、出来ない義務や責任に立ち向かえとは言わないタイプである。それは個人の闘争であり、フォース同士の衝突であり、解決が見つかることのない無知な努力である。論点が違う。論点は「私」である。「私」が何者であるか、である。「私」を個人と錯覚する場合、そこに「個人の責任」が生じる。真我を見出し、自我を放棄した場合、個人の責任もまた存在しなくなるのである。個人も、個人の責任も、共に思想だったのである。この錯覚を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか。あるいは次のように言おう。神が訪れたときのみ、錯覚は溶かされると。神と一体化したときのみ、神の道が開けると。それはよく言うオカルトの格言と同じ意味である。「道を辿ることができるようになる前に、道そのものにならなければならない」。

冷え切った者が火で暖を取るように、冷たい世間の風に疲れた孤独な者が取る暖とは、神の火である。肉や魚を食する者が、細菌・ウイルス・寄生虫、およびそれらが産生する毒素を破壊するべく火を通すように、霊の顕現を妨げる物質の毒という毒を焼き尽くすのは神の火である。我々が焚べる薪とは自我であり、焚き火は頭部にあり、頭部に到達する火とは、まさに上が下に到達し、下が上に昇るときの、あの神の火である。瞑想により、火が自我感覚と、責任や義務感を含めたあらゆるその所有物を溶かし破壊するのである。

私は初心者に、食べさせる家族がいるのに仕事を辞めろと言っているわけではない。だからと言って、あまり厳しくしすぎるのも好きではない。甘えて一人で立てなくするのはもっと好きではない。深刻になっている人に何が言えるであろうか。生きていけるか分からないほど、実際にきついのである。しかし、それは錯覚であると言えるようになってもらいたい。どんなことが起きても、瞑想で己を見出した者にあっては、分離がないから存在していた問題も苦しみも消えてなくなり、個人の状況に関わらずいつでも神の至福と喜びに生きることができる。温かく親切に思えたどの人も、そうではなかったことを知るとき、それは己に欠陥があるからである。完全ではないのだから、誰もが自身の欠陥に苦しみ、人間関係に悩み、落ち込むほど傷つく。元気なときは、誰でも威勢のいい大口を叩けるが、元気がなくなってしまったとき、人は真に己の無力を悟る。上から高位のエネルギーつまり元の気が流入しないというならば、また流入経路となるよう瞑想で調和を学ばないというならば、気は乱れたまま、そして乱れ荒れ狂ったものを調整する何の力も存在せず、内部で争いは激化し、自己破滅へと導かれてしまう。

昨日までは元気に見えた者が、翌日には絶望して自殺していることがある。内なる調和すなわち真我を知らぬ人生は、極度に脆い。それは運次第であり、ひどい不幸が起きたらどうしようもない。もちろん、不幸ばかりであれば成長できないゆえ、助けや幸福といったものが交互にやってくる。この繰り返し、この経験の領域で個人は学ぶが、何をいったい学ぶというのか。己が何者であるかを学ぶことだけが重要である。そのためには、火が必要である。火を起こすには火種が必要である。神という火の祭壇に捧げる火種は、この我である。自我のみである。瞑想という火葬場を利用せずして、どこで神の火が錯覚と偽物を焼き尽くし、破壊しうるだろうか。私は今回、頭部内の光ではなく、頭部内の火の活用について述べたつもりである。「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である(ヘブライ12:29)」。破壊も創造も、火種なくして成立しない。具体的な媒質は変わっても、原理は一つである。火種とは、爆発的変容の起点となる均衡破りの点である。その点は、まさにこの我である。

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