螺旋の中心、台風の目

いま苦しんでいる人間をどう助けうるか。誰が助けうるか。言葉や文章による知的理解は正しい方向性に導こうとはするが、頭の理解は我々の苦しみに対して無力である。いくら愛を語っても、愛の概念は、苦しむ者にとっては何の意味もないだろう。簡潔に言うと、苦しむ人間は、自分をその個人だと思っているために苦しみを味わっているにすぎない。我々は、苦しむ個人でも人間でもない。これは頭では分からない。個人(つまり私)という想像力の虚像が希薄化されたとき、個人の背後の魂が理解され始めるであろう。彼が人間にとっての内在の神である。彼だけが、すべての苦しみを癒やし、すべての無知や錯覚を知恵に引き上げ、意識において、すべてとの一体性、その一としての根源である永遠なる我へと連れ帰る者である。これを知るとき、苦しんでいた個人は、個人を捨てさえすれば良いという簡単な答えに喜び、目を下ではなく上に向け、目を虚像ではなく背後の実在に向け、意識を我そのものへと焦点化させ、神我一体を知る。

苦しむ者に、なぜ苦しむのか理論を伝える必要は最初だけあるだろう。しかし、各々が瞑想という実践、愛という自身を度外視した生き方の実践、おのれを個人に限定せず、ハートからすべての兄弟姉妹、つまりすべての我へと愛を開港し、愛として一体であるならば、個人という小さな自己のみならず、すべてを我そのものとして癒やすであろう。この癒やしは、人の意識を天へと昇らせる。しかし、その上昇あるいは脱出への道が、通常の人間には閉ざされている。その道がまだ存在していない。したがって、ある段階の意識に到達した者たちが語る話は自身においては現実にならない。

塞がれているところに道を作るには、人間でさえトンネルを掘る。道なきところに道を作るには、人間でさえ多大な労力と時間を必要とする。だから瞑想という探求、まさに掘る作業、あるいは掘る地点をまさぐる作業、どこから掘れば通じるのかを知る作業、これらを教える魂を見つけ、方向づけることで、魂と共闘ないしは共同作業を行うという意志と法則に、性急さを求めてはならない。無知の闇に耐えるしかない時がある。孤独の暗黒に震えねばならない時がある。天の御国は間近だというのに、その最後の最後まで、堀り抜くまでは、辛く苦しいのである。

瞑想とは、マインドの客観的な傾向や外向的な衝動を阻む過程であり、そうすることで、マインドは主観的になり、焦点化し、直観的になり始める。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」p.33

初心者は自分で阻もうとする。瞑想が成熟するにつれ、個人は黙り、神の意志を魂が担っており、魂が阻む力を我々にもたらし、これまでのように外向的でも客観的でもなく、主観自体に方向づけられるようになり、そして一番重要なところは、「直観的になり始める」という点である。頭でしか考えられない時期は、直観の意味は分からない。それがどれだけ霊的に重要であるかも分からない。では、頭が静まった後、つまりマインドが静まった後、知性は消えるのであろうか。それとも、真の知性を我々は知るのであろうか。我々が知っているような知性とは全く異なる、神の全知へと繋がる潜在的知性がそこにはあると私は言う。人間の「知」は、その潜在からの抽象的なアイディアを自身つまりマインドと脳で独自に解釈したものでしかない。したがって人間のすべての「知」や「理解」は間違っているのである。であるならば、全知なる潜在から現れる純粋な知を、あえてマインドや脳で具体化しようという試み自体を我々は放棄するようになるのではないのか。なぜなら無意味だから。本物を偽物にすることは無意味だから。このようにして、瞑想は対象化したり具体化したりするマインドの傾向を魂として阻み、純粋な知、その源である普遍的かつ潜在的な知へと導くものである。ゆえに、我々は知らないことを即時に知るようになり、考えずして考えられるようになるのである。これが直観的になるということである。

すると我々は、何も考えなくて良いということを知る。もしくは知って驚く。このようにして、何もしないことが始まる。活発なマインドに条件づけられてきた人間はおとなしくなり、背後へと退き、至福のうちにすべてをありのままにただ観照する。それは観照者ではなく観照である。それは二元ではない意識である。そのとき、「I AM」が理解されるであろう。私は在る。ただそれだけだ。その他の話はどれも消え去った。

だからどんな時であっても瞑想を信じよと言いたい。実りの乏しい時期は誰もが、しかも周期的に経験する。器を完全にするためには、ちょうど陶芸家が粘土を回転させながら練り上げ、内部の気泡を取り除き、粘土の硬さを均一にするにあたって、その作業を「Spiral wedging」と呼ぶように、神の器を練り上げるとき、その質料から悪い部分が抜かれ、そこに楔が打ち込まれる際、回転的だが螺旋的に仕上がるように、たとえ高い意識を達成した者ですら、質料に内在する「悪」が取り除かれ、質料が均一に神聖になるまでは、前進と後退、成功と失敗を何度も何度も繰り返すものである。だから一々、現象の世界での周期的展開に一喜一憂することなく、すべての中心に不動として存在する魂の道にのみおのれを固定し続けるべきである。

生命はすべて周期的である。これは弟子たちが忘れ見落としがちな点である。弟子たちは、強烈な感覚がなくなったとき、自分が落胆していることに気づく。イニシエートは常に、相反する対をなすものの間を穏やかに恐れることなく真っ直ぐに歩む。

新時代の弟子道4 p.467

それは彼が魂だからである。真っ直ぐに歩むことができるようになる前に、不動そのものである魂になっていなければならない。粘土から、個人性を生み出す気泡つまりイリュージョンを神眼によって取り除き、まだ現象の世界で個人は浮き沈みを経験するであろうが、必ずしもその経験に巻き込まれる必要はないことを知り、浮沈という相反する対をなすものから自由な、不動という魂として、道そのものとして、そのものが指し示す道に集中せねばならない。

内在していた様々な欲求が頭をもたげ始めもするだろう。誘惑に駆られ、学び終えたはずの誘惑に再び屈し、その愚行に応じた罰すら訪れるであろう。しかし、

もし学ぶ者が望ましく発達を遂げるならば、各プララーヤ(休止期)の後に、より大いなる活動とより大いなる達成の時期が訪れるはずである。リズム、満ち引き、脈打つ生命の一定の鼓動は、常に見られる宇宙の法則であり、至高の波動に反応できるようになろうとするならば、この周期性を覚えておかねばならない。

ホワイトマジック下 p.14

よって、どのような苦痛も一時的である。しかも、実際はこのような前進や後退ですらイリュージョンである。我々は、ただ真我のみを求め、つまり神のみに方向づけられるよう運命づけられている。この流れに対して意識的に生きるか、神の流れに対抗する流れに逆に条件づけられて無意識的に生きるか、このような難題を乗り越えさせてくれる力を瞑想で我が内に発掘するか、知的な人間はこれらを自ら選び取らねばならない。

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