何かが在るとは、単純に解釈である。早合点の解釈や常識に安心を求めるのではなく、あなたの外に、一つでも何か別のものが在るという現象に目を凝らしてもらいたい。あなたに苦しみが在る。あなたと苦しみは喧嘩中であり、互いを憎み、排斥し合うことを望んでいる。マインドよりも上の目で見ようとするとき、あなたと、その苦しみは、全く同一のものである。もしこれが本当に分かるならば、対立しようがないだろう。分離意識のときのみ、対立という錯覚が可能なだけで、すべてが自分であることを見抜きさえすれば、これは即時に幸せである。即時に苦しみは喜びに変わる。これをもっと拡大して考えてみよう。世界の中にあなたがいると考えるとき、他の人が存在し始めるのである。森羅万象はそれぞれ固有の形態を表しているが、形態に焦点化して命名したり、存在を確定したりする前に、このような高位の目で見るとき、世界の中ではなくあなたの中に世界が在り、その世界とはあなたのことなのである。このとき、自身のなかですべてが綯い合わされ、溶け合い、許し合い、調和と平和が実現し、合一したことを知る。これが、「汝自身を知れ」という基礎的な課題がもたらす偉大なる解放である。なぜ偉大なのかというと、我々はもう何も怖くないからである。
意識が自己つまり一なる者に安定したとき、イニシエートは自分が、形態内で万華鏡のように変化する生命の幻影を傍観する統一体であることを知る。……しかし、徐々に彼は魂に「吸収」され、すべての形態内のすべての魂の様相と連結するようになる。やがて魂以外のものは存在しないという認識が芽生え、その結果、より高い統一状態が生まれる。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」 p.73
こういうことが起こる前、わたしは自分のことを、この上なく勇敢で無恐怖な人物であると思い誇りにすら感じていた。この男の正体を見たとき、とんでもない怖がりであることを確認した。あらゆるものを恐れているのである。感知されない恐れというものは多い。表情ひとつにも、記憶と経験と先入観が、警戒心というものを人に押しつけている様が見て取れる。赤子はどうだろうか。無警戒である。無邪気である。天真爛漫である。赤子が愛されるのは、一つには、その当時の感覚を何かしら思い起こさせるものがあるからである。高位の意識に入ったとき、我々は赤子に帰る。数多の困難を経験する前の、警戒というものをまるで知らなかったときの、美と喜びが支配していた天国なる意識に帰る。この意識において、「何か他のもの」はありえない。「私は在る」は事実である。「私は在る」は実在である。他は想念だったのである。
いかなる対立も分割も、一なる自己の中で融解されるだろう。「誰」というものはいなくなるだろう。「私」すなわち「真我」と呼ばれている「原因」において、すべては私である。我が内にすべてが集約される。すべてが私であるとは、分割がないゆえに、一切の対立が存在しないということである。これが平和である。この平和、この一体性を知る者だけが、平和の活動家たりえるのではないか。愛の奉仕者たりえるのではないか。警戒心や恐怖心を抱く者が、いくら政治家になろうが、あるいは何らかの活動家になろうが、敵を絶えず作り出し対立し破壊し合い怯え合うだけで平和への前進はないままだろう。まずおのれを知れとあらゆる賢者方は教えてきた。内なる平和を知らないかぎり、どういう平和運動がありうるだろうか。何が平和なのかを知らねばならないのではないのか。平和とは生命の一体性に基づくものである。「万華鏡のように変化する生命の幻影」を我々は「存在するもの」と認めながら生きている。諸体が静かになるとき、このような幻影に強調点が置かれることはなくなるだろう。一つである生命が唯一の価値になるだろう。
瞑想中、我々はおのれを「見る」。その光が貫通したとき、見られているものと自身が同じものであるという認識に至る。ここに対立と分離の解消があり、もはや戦う必要がなくなる。すべてが自分であるとき、戦えない。真理自体が平和であるため、あえて錯覚に入らぬ限り、嫌ったり喧嘩したり破壊し合ったりすることなどできようもない。この一体性をわずかなりとも知っている者だけが、人の子らの指導者として認められる時代が来るだろう。よく知られた日本国憲法第 15 条第2項では、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあるが、これを作った者がそもそも適当だったのだろう。全体も一部もない。分離意識だけが、自身や自身に益を為す特定の者など一部の者らの利益や欲望を優先させ、また追求させるのであり、一部は全体であり、全体は一部であるという、”分離ではなく一体性の認識が奉仕または奉仕者の前提である”とでも仮に書き直し、それを理解する者だけが真に導き手、つまり奉仕者と認められる日が来るならば、多くの問題がたちまち解決してしまうだろう。
多くの真摯な瞑想者が平和を、一体性を見出していくだろう。彼らの特徴は愛と無恐怖である。我々は原因である。世界の様々な形態という結果ではない。すべての形態に魂を見るという意味は、すべての結果に原因である私を知るという意味である。それは神秘的な現象ではない。事実である。だから、瞑想者は内なる聖者つまり魂との交わりを大切にし、魂を拡大し、意識を拡大し、包含意識に入りゆかねばならない。「子供は正直」と大人は言うが、言い換えれば、大人は恐れているものが多すぎる。それはきっと不幸な状態であるに違いない。いくら強がっても、勝ち目のない敵や戦いが周期的に訪れ、おのが無力に涙することになるだろう。一体性という原因の意識を知ったときだけ、恐れを無力化することができる。分離をかき消し、赤子のときのような無警戒の愛と喜びを知り、三界では平和の使者の役目を果たしうる媒体になるだろう。平和は内なる一体性の具現化であり、戦争は外なる分離の拡大化である。存在するものをしっかり内に見て、存在と存在を見る者が同一であることを確認しなければならない。そのとき、あの偉大なる啓示が稲光のように我々を打ち、それまでのあらゆるものを焼き溶かしてしまうだろう。そして恐れはなくなり、一体性の中に愛と喜びを知るに違いない。