覚者の言葉が響いても、誰も悟らないのはなぜか

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新時代の悲劇

かつてこれほど多くの人々が自己探求に心を開いた時代があっただろうか。書店には精神世界の書籍が溢れ、覚者の言葉は広く流布し、瞑想や霊的な探求が一般的な関心事となった。しかし、もしこの時代においてすら、真に達成する者がまず存在しないのだとすれば、何か根本的な誤謬が存在していることは疑いようがない。

多くの者が覚者の書を貪るように読み、数え切れぬほどの金言に心を打たれ、それを糧にさらに百冊の書を読み漁る。熱烈なまでに到達を切望し、日夜瞑想に励み、求道の歩みを止めることがない「真剣な者」は世にごまんといる。しかし、その中の誰が実際に達成へと至っただろうか。ラマナ・マハルシの教えに心酔する者は多いが、誰も彼の境地に達していない。これは、果たしてラマナ・マハルシの問題なのだろうか。それとも、取り組み方そのものに根本的な誤解があるのだろうか。

私は後者の見解を取る。そして、その誤解の源泉は、単なる知的な理解の不足にとどまらず、教師たち自身が「ある種の内的事情」について意図的に語らぬことにも起因している。本稿では、これらの点についてより深く掘り下げる。

ラマナ・マハルシの教えと言葉

例えば、以下の朗読動画でラマナ・マハルシは次のように語る。

あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。ただこの習慣を放棄するだけでいい。そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。

この動画はチャンネル内でもよく見られている。どこか心に響くものが含まれているのだろう。しかし、その言葉を受け取るだけで終わってしまい、そこから本質的な問いへと進めるかというと疑問が残る。その理由は以下である。

1. ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ

まず、何が偽りで何が真実であるかを、われわれは分からないのである。それゆえ、「われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている」と言われることになる。頭では、想念やマインドといった”偽物的”なものを羅列することはできるかもしれないが、その偽物にしか生きることができないのはなぜだろうか。それは、本物を知らないからである。本物が最初に訪れることがあまり知られていない。最後に本物を知るのだとわれわれは思い込んでいる。私の瞑想によると、最初に本物が訪れて、本物が偽物に教えるようになり、偽物が本物に心奪われるようになるのである。

2. ただこの習慣を放棄するだけでいい。

ここでいきなり論理の飛躍が訪れることに気づくだろうか。われわれは皆、偽物と本物の区別がつかず、偽物を本物と見なして生きているというのに、どのようにしてこの「習慣」を放棄できるというのだろうか。もし、この言葉が真実ならば、それを耳にし、理解し、しばらく実践することで「真我実現」は訪れるはずである。しかし、実際には何も起こらない。この事実を直視するならば、人は初めて「彼の言葉は、自分には何らかの理由で本当は届いていない」と理解するはずだ。

しかし、権威化というものは恐ろしい。そのまま心は受け入れようとするのである。偉大な覚者の言葉をただ受け入れ、金言として心に蓄積する。最終的には、疑問を持つことすら忘れ、ただ崇拝することに安住し、思考することをやめてしまう。そうして、霊的な道を歩んでいるはずの者が、実際には自らを軟弱にし、依存的な存在へと変貌するのである。

3. 言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。

ここだけが核心である。それまでの話は、結局のところ言い換えれば、「真我として在ること」だと言っているのだが、ここに至って初めて、「では、真我を知ることが先ではなかったか?」ということに明晰な者は気づくのである。多くの信者は、「私は誰か」と問うことで真我を知ることができると考える。想念やマインドという偽物を問うことで追いやり、真我が訪れるのを待つというスタイルである。言い換えると、常に心は真我を期待しているのである。希求という心の作用に条件づけられているのである。すなわち、求める限り偽物に生きていることになるのだ。ここについて、いったい何人の者が真剣に考えたことがあるのだろうか。

心の鈍感さ

なぜこれほど単純なことをわれわれは理解できないのだろうか。それは愚か者が金に目が眩んで罪を犯すのと同じことで、真我実現という霊的欲望に目が眩んで、心の欲望で心の投影物を追いかけているという構図がまるきり見えなくなっているからだ。心の愚鈍さは、心が純粋ではないという意味である。

求めるとは、明らかに欲望であることを認められるだろうか。多くの者がこの事実を受け入れることを躊躇する。ある質問者はこう述べたことがある。「真我への欲望だけは肯定されるとマハルシは言っています」。そのような関心を持つこと自体は、初期の段階においては必要である。しかし、ここで見落とされているのは、質問者がすでにその段階を通り過ぎているということである。実践の段階に入ったとき、どうして霊的な欲望が許されうるだろうか。

言い換えるならば、実在の上に架空の投影物を築き、その投影物への執着を放棄しないまま、それを消し去ることが可能なのだろうか。分かるだろうか。われわれのこの探求という全体像は、すべて心の産物なのである。言い換えると、心が偽物なのである。

心が偽物ならば、最初に知るべき本物とは何か

私はお構いなしに専門用語を用いる。なぜなら、専門用語を避けることによって生じる弊害を、クリシュナムルティの例が証明しているからだ。彼は専門用語を拒絶したために、聞き手の心を心の領域から引き上げることができなかった。そして、多くの者は彼の言葉を単なる哲学的命題のように扱い、そこから先へと進むことができなかった。

では、「本物」とは何か。人間つまり心における本物とは、魂のことである。魂とは、単なる個の意識ではなく、すべての生命と分離していない一なるものである。秘教的に言えば、人間の心は低位具体マインドであり、魂は高位抽象マインドである。具体マインドは常に意味を求め、納得を欲し、解釈し、関係性を構築し、それによって自己(心)を維持しようとする機能を持つ。われわれが行っている自己探求とは、この低位のマインドの働きにすぎない。

しかし、秘教はその上位に、あるいは背後に、最初から存在するものとして魂を認める。意識が変容するのは、魂との融合を通してである。だが、低位のマインドは高位のマインドの存在を知らない。それは、低位のマインドが外へと向かう性質を持つからである。逆に、内へ向かえば、高位のマインドが知られるようになる。しかし、それはわれわれが知る「心」とはまったく異なる性質のものである。

どのようにして内に向かうのか

一言でいえば、それは瞑想である。しかし、ここで問うべきは、瞑想とは方法なのかということである。たとえば、目が何かを見ることは「方法」だろうか。肉体がそこに存在することは「方法」だろうか。瞑想とは、「本物として在ること」にほかならない。先ほどのラマナ・マハルシの言葉を借りるならば、それは「真我として在ること」である。しかし、そのためには、まず本物を知る必要がある。この最初の認識が欠落しているため、われわれは間違った取り組みを続けるのである。

では、人間はどのようにして魂を知るのか。この問いに答えるためには、通常の教師が語らぬ「内的メカニズム」の話に触れなければならない。

教師が語らない内的メカニズム

人間と魂の間の意識の断絶は、アンターカラナと呼ばれる橋の構築によって埋められる。多くの教師がこの「橋」に限らず、本物を知るために不可欠な内的なメカニズムの概念について語らないため、われわれは偽物の意識が本物を見出すまでの過程に何が起こるのか、あるいは何が起こらねばならないのかを知らぬまま探求へと投げ出される。

この期間に起きることを十分に書いているのは、おそらくジュワル・クール覚者の本だけだろう。昨日の見習いの弟子と受け入れられた弟子の話ではないが、彼はさらにイニシエーションの概念を用いて、本物に意識が落ち着くまでの意識段階を細分化し、各々の期間に起こることや、達成すべきことなど、必要な話を詳細に説明した。

対して、聖者たちは内的なメカニズムについて話したがらない。理由は二つある。第一に、正しい探求を続ければ、内的メカニズムは自然と発達するからである。第二に、それに関心を持ちすぎると、多くの者が真の目的を見失い、「チャクラを開く方法」などといった低次の関心へと堕していくためである。

このような関心の逸脱は、道を誤らせる。すべての内的メカニズムの発達は、自然でなければならない。意図的に発達させようとした場合、それは確実に災いをもたらす。

そのため、霊的な倫理感(第一イニシエーションに該当)を確立した者だけに、秘教の知識は漸進的に伝えられてきた。ジュワル・クール覚者の書には、読者に危険を及ぼす可能性がある要素は徹底して排除されている。あるいは、危険性が軽微である場合でも、あらかじめ警告がなされている。そして、欲望によって道を歩もうとする者には馴染みにくい文章となっている。むしろ、それを排除するための意図的な構成が施されている。なぜなら、探求の第一歩には、心の純粋さが求められるからである。

霊的知覚の器官

実在は常に在る。だが、それを知覚している者はいない。なぜなら、人は心で生きているからである。心で生きる限り、心が映し出す幻影こそが「現実」であるように感じられ、それが本物の上にヴェールをかける。そして、心は自ら作り出した幻を本物と見なし、永遠に心の内部で右往左往することになる。どこまで行っても、心を超えることはできない。だからこそ、本物がまず心に訪れなければならない。この視点を欠いたまま探求を続けるならば、それは虚無の追走でしかない。それゆえ冒頭で、「取り組み方の誤解」について述べたのである。

つまり、取り組まないことが必要なのである。ここで、「なぜ達成する者がかくも稀であるのか」という問いの答えが見えてくる。簡潔に言おう。人々は、何かをしなければならないと信じ込んでいる。つまり、何かをしたがっている。何かを求めている。それを止めてしまうと困るのである。泳いでいないと沈むぐらいに考え恐れている。つまり、自分が無くなることを恐れているのである。心が自身の解体を恐れるがゆえ、高位の知恵に間違っても触れないよう、浅はかな想念や情緒によって、無意識的に自らを魂から遠ざけているのである。探求の名のもとに、自らを惑わしている。つまりは自作自演……。

惑わしの秘教的分類

秘教徒は、この惑わしも分類している。アストラル的な惑わしをグラマー(glamour)と呼び、メンタル的な惑わしをイリュージョン(illusion)と区別して取り組み方に示唆を与えた。アストラル界のグラマーを消散(dissipate)するのは魂(高位メンタル界)のイルミネーション(illumination)であり、低位メンタル界のイリュージョンを追い散らす(dispel)のは魂を経由したブッディ界の直観(intuition)だと教えたのである。

名前界層対象物・知性克服方法
マーヤエーテル界インスピレーションフォースの操作
グラマーアストラル界イルミネーション瞑想
イリュージョンメンタル界直観魂による観照
敷居の住者物質界臨在の天使(魂)一体化

到達する者は、自分が無くなることを恐れない

到達する者とは「自分が無くなること」を恐れない者である。瞑想を通じて魂と接触し、徐々に魂と融合することで、次第に自身が「心ではなく魂である」ことを発見する。そして、この発見こそが、真に探求の流れを変える契機となる。

なぜなら、魂の意識と心の意識の間には、ほとんど地獄と天国ほどの違いがあるからである。そのため、意識の変容を経験した者は、もはや心の意識には戻ることができず、自発的に魂との融合へと向かう。そして、魂との融合が深まるにつれて、心の迷妄は次第に消え去り、観照意識のみが残る。

偽物と本物の識別

今回の文章では、「偽物と本物の識別」に焦点を当てている。それは、先ほどの図でも分かる通り、アストラル的な偽物に対しては「魂のイルミネーション」、メンタル的な偽物に対しては「魂を介した直観」が必要であり、これを簡単に言うならば、ただ「魂として在ること」なのである。

よって、本物だけに生きることが重要なのであり、この意味において、「ただ偽りを真実と見なすのをやめ、ただこの習慣を放棄するだけでいい」というラマナ・マハルシの言葉は正しい。しかし、そこに一つ加えるべき言葉がある。「真実によって」という一言だ。

真実が、偽りを白日のもとに晒すのであり、偽りを心によってどうこうしようとすることではないのだ。真実が先であり、本物が先であり、魂が先である。そして、魂の認識を妨げている心の錯覚は、グラマーとイリュージョンであり、その性質は、本質的に、「自分が無くなることへの恐れ」なのである。

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