覚者を越えよ

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魂の報酬

霊的な合一は、人間の苦闘に終止符を打ち、苦しむ能力をなくし、絶えることのない至福を享受させるに至る。それは分離がなくなるからであり、すべてのすべてが美しく愛おしくなり、地上に神の王国は復興され、その王国へ一人でも多くの兄弟姉妹を導くことだけが意志にして喜びとなる。しかし、合一まで至る者が極めて稀であることもまた由々しき事実にして謎である。いったい、なぜであろうか。到達を阻む原理を、我々は自身の態度に見いだす必要があるにちがいない。

神性の外部投影

霊的探求において、外的な教師や覚者の存在は、初期段階のみ、重要な役割を持つ。ここで我々の多くが脱落する。つまり、彼らを自分とは異なる「特別な存在」として神格化し、自己の神性を外部へ投影してしまうのだ。社会心理学が言う「権威バイアス」がこれに当たる。ミルグラムのいわゆる「権威に対する服従」である。権威を持つと認識された者の言葉がそのまま受け入れられることで、自ら思考する能力が失われ、霊的に言えば、権威を神格化することで自己の霊的成長を外部に委ねることを平気で行うようになる。こうして、判断や規範の根拠は、「権威が言ったこと」になる。

覚者という権威の言葉を学ぶことと、それを「自己の現実として生きること」との間には、霊的に決定的な断絶がある。我々の多くは前者にとどまり、後者へと踏み出さない。この結果、覚者は「超越的な存在」として祭り上げられ、探求者自身が内なる神性に気づく契機は失われる。これは、探求者の恐怖に根ざしたものである。探求とは自己の放棄を求めるものであるはずが、我々の多くは、探求することそのものを自己のアイデンティティとしてしまう。つまり、自我の破壊を本当は恐れており、自我の強化を実際には望んでいるのである。

彼らには次のような問いが有効である。あと何を学べば満足なのですか?

探求の持続で自我を養い強化する

霊的探求者の多くが「探求を終えること」を避けている。学びを継続することで「探求者であり続ける」ことに安心感を覚えるのである。心理学は、ある行動がそれ自体を正当化し、さらに同じ行動を持続させる仕組みを「自己強化型ループ」と呼んでいるが、熱誠を抱く霊的探求者は、しばしばこのループに陥り、本来ならば短い期間で達成できるようなことも、この停滞によって自ら不可能にさせる傾向があるのである。

それは、自我で探求しているからにほかならない。自我で外に何かを求めているのだ。言葉の上では「内側を探求」と言うかもしれないが、我々の誰が内側を知っているであろうか。知らないから求めているのである。内側とは、探求するような心が静かになったときの「存在の状態」である。魂がマインドをおとなしく従わせたときの「純粋な意識」である。したがって次のような質問を投げかけたい。

あなたはあなた自身として達成することに興味を持っていますか? それとも、達成という心が作り出した概念にはすでに無関心であり、そのような心の動きを傍から見ることができていますか? またそうでなければならない理由は分かりますか?

霊的進化の長期的プロセスへの拒否反応

人間の心は、即座の結果を求める傾向がある。この心について心理学なら「現在志向バイアス」と呼ぶだろうが、霊的探求においては、結果を求める性急な探求者の姿勢へと堕落させるものであり、そこには意義のある長いプロセスをかみしめ味わう余裕はない。成長にはあと数十の転生が必要だと霊的権威に言われたとしても、真の探求者であれば、心がわずかであれ揺さぶられることはない。その必要があるならそれでいいし、私は関係なく魂に集中すると言うだろう。真の弟子とは、権威の言葉を常に鵜呑みにせず、自身の魂をただ知る者である。

魂を見出すことを可能にさせるアンターカラナの発達や、主要チャクラや副次チャクラの開花度合い、また諸体の質料的で波動的な精製度合いなど、メカニズムの開発には時間がかかるものである。この言葉に我々はしばしば意気消沈するし、「どうせ自分には無理だ」といった自己劇化型の反応をしがちである。これは、「学習性無力感」の典型例であるとともに、あえて自己評価を低くすることで、「努力しても無駄だった」と言い訳できるようにする「セルフ・ハンディキャッピング」型の心理的戦略でもあるが、それは誤解である。なぜなら、霊的成長は段階的であり、一足飛びには進まないが、その時々に見合った報酬というものが常に与えられるからである。それは、その時点の意識にとっては非常に満足のゆく素晴らしいものであることを全ての真の弟子たちは知っている。したがって次のような質問を投げかけたい。

霊的権威が体現しているような意識――遠い先の達成に気を取られるのではなく、現在の自分の目標が見えていますか? その目標こそが今は重要であり、価値があることを知っていますか? そして、その目標が何であるか知っていますか?

霊的進化の加速的性質と臨界点の認識

霊的探求の辛さ、長さに関しては、大変な苦闘が伴うものである。しかし、霊的進化は直線的なものではなく、一定の臨界点を超えた瞬間から急激に加速する。これは、物理学の言う「相転移」の概念に似ている。ちょうど赤熱しながら耐えていた鉄が、ある瞬間、白熱して一気に溶け出すようなものである。イエスの生涯で言えば、第二イニシエーションを指す洗礼までは長かったが、それ以降――変容という第三、磔という第四、復活という第五はたった三年で成し遂げている。辛いのは第二までであり、それ以降は一気に急速に進歩するものである。なぜなら、第二から探求者は魂になることを学ぶからである。彼は「探求者」ではなくなり、魂に変質するからである。その完成が第三である。

正しい探求は地道だが着実

霊的進化とは、「知識を増やすこと」ではなく、「錯覚を破ること」である。例えばジュワル・クール覚者の書物は膨大であるが、すべてを読み解く必要はないどころか、基本さえ理解できていれば十分なのである。基本とは、正しく生きようと決意し、そのように努め、そのために無執着で正しい瞑想を続けるという、シンプルなものである。その正しさが上手く機能しているかどうかは、吸収したものを物質界で応用する能力、つまり自然な無私の奉仕の手腕に必ず見られるようになる。そして、その相互作用でますますその弟子も、人類も、良い循環が生まれるのである。

反対に、間違った瞑想をしている場合には、吸収するような実りも少なく、奉仕したいという魂の欲望が芽生えることもなく、自分の成長に目は向き、自分にばかり奉仕することで自我を強化する。ゆえに成長できず、手放せず、結局は不幸になり、人生に悲観的になり、苦しまねばならなくなる。しかしながら、霊的な成長とは必然的なものであり、何も気にする必要はないのである。途中までは、ただ義務だと思って行うとよい。正しく生きることが義務であり、正しく瞑想することが今できる最大の義務であると考え、達成など心が描き邪魔してくる欲望的想念に関しては諦め、そのような達成を可能にさせるのは自分ではなく魂であることを知り、自己の滅却が理に適っているという事実を熟考し、その正しい生き方という霊的義務によって着実に波動は高められ、内なるメカニズムは開発されるということを知っているだけでよい。

最後に

探求を妨害しているのは自分自身である。この「私自身」というものへ目が向き直り定まることが、転生史上における最大のコペルニクス的転回である。書物や覚者の教えの中に自分自身があるだろうか。自分自身を見出すことは、己でしかできぬものである。霊的権威から離れることをいつか弟子は学ばねばならない。道はおのれ一人で十分であると知り、時に何が正しいか分からなくなったならば読んだり、耐えたりすればよく、進歩が常に前進と後退を包含しながら螺旋状に進むことを体験し、そのような見た目上の決まり事に揺さぶられることなく、すべての者が見出すことが可能であり定めであるという基本だけを胸に刻むべきである。

そのためには勇気が必要である。教えに依存する存在から、この内なる本物をわれ自ら見出さんとする真の実践へと瞑想によって踏み出さねばならない。このとき、いかなる教えも実践には持ち込めないのである。持ち込んでいる限り、外に目は向いている。真におのれのみを見よ。そして可能ならば、おのれで在れ。見ることは多くのイルミネーションをもたらすが、融合へは導かない。見ることに伴うマインドをも放棄して、ただ在るというそのオーラ領域に入ったとき、「I AM」の意味が明らかになり、それ自体が即時に報酬となり、それ以前には決して到達できると予測すらできなかったような境地に至るであろう。しかもそれが、あまりに身近、あまりに私、あまりに全てであることを知り、その至福に驚くことだろう。

我々の目標は、達成するのは時代に一人か二人といった従来の進歩の遅さを打破することである。これは一人ひとりが融合することによって成し遂げられる。その勇気ある先駆者にならねばならないのである。

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