もし現象と非現象の間の基本的融合が見失われれば、対象化と観念のぬかるみの中で行き詰まってしまうだろう。いったん、非現象は私たちであるすべてであり、現象は私たちが分離した対象物としてそう見えるものであることが理解されれば、どんな実体も私たちの本質に関係することはできないこともまた理解され、それゆえ解放を必要とする実体という観念がナンセンスなものと見なされることであろう。そして「解放」がもしあるとすれば、まさに束縛と解放という観念からの解放であることが分かるだろう。
「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」 p.109
瞑想者もしくは修行者は、努力や修練の末、長い年月をかけて解放を達成しゆくものだと考える。これが違うということを私は発見してきた。それを言葉でいい表し翻訳するにあたり、思い浮かぶままに並べてみる。
- 今すぐに解放を見て知ることができる。もしくは、今でなければ見れない。
- この解放意識は、外側の自我とは何の関係もなく今存在しており、自我や行為は影響を与ええない。
- 人は自分を見ている。観念や想念を見ている。興味があるのは「対象化」であり、ありのままではない。
- 我々は、なんであれ、そのままでいい。これを理解したとき、変容意識を知り、最初からそれであったことを知る。
- 何もする必要がない。これに困るのは自我だけである。
- 悟りや解放を考案したのは自我である。そのようなものがないことが知られると、自我は大打撃を被る。
- 道とは自作自演である。道は未来を人に見せ、現在を見えなくさせる意図的なマインドの罠である。
私が「私」と言うとき、それは外的自我とは関係していない自己であることを理解する。それは秘教徒の定義でいえば魂である。ただの意識とか、純粋意識とか言う人もいるだろう。もしくは観照者である。書くとき、外的自己が道具として使用され、この者に翻訳力は依存している。しかし書かせている力と、翻訳者である外の道具は関係のないものである。私は書かれる現象、書かれる内容や行為、これらと離れている。私は、書いている者と無関係である。思考を使用するのは、書く直前である。書かれるべき内容、言語として具体化される前の抽象的な、形態を纏う前の”思考以前のもの”をマインドが捉え、低位マインドや脳はそれを解釈し文章化する。
誰もが今、見て知ることが本当にできるのだろうか。できるのではなく、もうその状態なのである。何らかの意識を目指しているだろうが、すでにその意識だと知るならば、その意識に入るのである。これは自我には不可能に思える。なぜなら、自我意識しか感じないため、それを自我は間違った意識だと推測するからである。こうして「自我から真我へ」という解放の道を自我は喜ぶ。いま真我であることを自我は否定する。その根拠は、書物や覚者が言う意識と自分の意識が違うと感じるからである。こうして、純白な意識の上に、出鱈目な想念が並び立てられ、自我意識の現実性や正当性が自我によって弁護される。
- あなたは「アンターカラナ」を認めてきたと思います。ときには「頭部内の工事」という表現も使用しています。であれば、その橋が建設される以前には知覚ないし認識は不可能だということになりませんか。私には、あなたは橋を建設したため「見える」だけだと思います。
その話に一定の現実性があるとして、あなたはどうやってアンターカラナを建設するのだろうか。その方法が具体的に示されている文章を見たことがあるだろうか。
- ベンジャミン・クレーム氏によると、「橋」とは象徴であり、実際は認識を意味するものだと書かれていますが、橋の科学が公開されていないのは、まだ人類がその段階にないからであり、それが公にされるのは先のことだといった話がされていたと記憶しています。具体的な方法はベイリー夫人の「新しい時代の教育」にも書いてはありません。
あなたは「橋の科学」が公開されるまで待つつもりだろうか。あなたが生きている間に公開されない可能性の方が高くはないだろうか。
- ええ……しかし、そういう話をしたいのではなく、あなたの文章は、あなたがアンターカラナを構築したから言えるものであり、純然たる自我意識である私には現実的ではないかもしれない、という疑念について尋ねているのです。
仮に構築済みだとしよう。では、あなたは一体どうやって構築するのだろうか。アンターカラナは私が話している内容に関する副次的なものである。あなたは「橋」を重視するのではなく、「現在」や「今ありのままの私」を重視すべきである。そのうち、橋が構築されたことを知るだろう。ちなみに、それは橋という感覚を伴うものでは全くない。
- しかし現在を見るという瞑想を行ったとして、構築まで時間はかかりますよね。一瞬で構築されるなら、誰もが真我に目覚めていることになります。
まず、現在を見るということは瞑想ではない。現在と瞑想は同義語である。そのままが現在である。あなたの意識がどうであれ、それが現在である。これを認め、それで良いと思えないとき、あなたは現在に抵抗することになり、現在を見ることは永遠に不可能である。次に、構築の時間は、記憶の産物であり、構築の技術と時間は無関係である。
- 「現在を見ることは瞑想ではない」とあなたは言われました。しかし私の自我意識では、見ようとすることしかできません。あなたの主張する「見る」は、私にはできません。これは事実ではないでしょうか。
今あなたにそう言わせているのは自我である。自我つまり偽我は、自身が真我ではないという決めつけに固執する。私は次のように言う。言わせている自我はあなたではない。いかに自分という感覚があり、自分の考え、自分の言葉といった感覚があっても、なお、真我であるあなたと、その自我意識は関係がなく、そもそも自我は存在すらしていない。あなた自体が錯覚である。それは単なる想念の集合意識である。あなたは想念ばかり見ているため、想念意識なのであり、それゆえ深い眠りの時でないかぎり個人意識を維持しているのである。
- なんと言えばよいか……とにかく、私は行き詰まっています。
では時間を前提に話す。この場合は、あなたの知る時間の概念で言えば達成は遅れる。正しい瞑想をし、波動を高め、高めた波動をなるだけ維持し、感情的でない静かな生き方をし、あなたには一切良いことは起きないことを受け入れ、自分ではなく他人のためだけに生きることが最もあなたを満足させることを知り、正しく生きたいがゆえに正しく生き、自分はどうであれ善だけを表現しようと決意し、そのような道を歩み、日々の瞑想を欠かさないようにしてほしい。自分のことに興味すらなくなりつつあるとき、魂と接触していることを認識するだろう。その魂が、あなたに以上の話が事実であったことを教えるだろう。あなたは自分が自我ではないことを知り、そのような嘘の話に全く興味がなくなるだろう。あなたであるものに没頭し、どのような想念とも関わらなくなるだろう。
- それはそれで、気の遠い話で滅入る自分がいます。
滅入っていい。私もよく落ち込んでいた。そのうち、落ち込んでいる人と自分がいかに関係ないかを発見することになる。関係ない存在の方から、落ち込んでいる人を見れるようになるのである。今のあなたは「滅入る」とそれが嫌だと言う。その態度をやめて、滅入ってもいいことを知り、いつであれ、快不快に関わりなく、そのままの自分をただ見ることである。事実は、あなたが現在の気分や意識や感覚を嫌だと思わないでいられるならば、即時に意識は変容するということである。非常に簡単な話だということを知るべきである。
- 私は何度も自分を見ました。それで、どうということもありません。
それで問題ないのである。もし問題があるなら、あなたは現在の自分を認めず、他の何かを目指しているのである。その場合、変容している意識を知りようがない。
- 明らかに今の私は不幸であるため、より良い意識を求めるべきだと思います。惨めさや苦しさにとどまって我慢していることはできません。
しばらくしてその感情がおさまったならば、そのときまた質問してほしい。今は何を言っても感情が上回るだろう。そういうとき、私はただ寝ていた。時間とともに記憶は薄れるため、あなたの苦悩や感情もしばらくすると落ち着くだろう。それからまた瞑想するといい。すると、あなたのアストラル体は瞑想によって徐々に沈静化し、やがて感情や情緒や欲求や好き嫌いや気分といったものは、あなたに何の影響も与えなくなる。そのため、感情に惑わされずに想念を統御できるようになるのである。この意味で、私は全く無能だったが、有能だった瞑想や魂が、無能な私の瞑想を通して働きかけ、教え、正してくれたのである。なんと瞑想の偉大なことか。あなたが瞑想を無欲にやり続けるかぎり、内なる癒やし手、内なる師、内なる天才、内なる慈悲、内なる宿命が、必ずあなたを助ける。その恩寵の主とあなたは同一の存在でありそれが真我である。