例えば記憶喪失。彼は私を覚えておらず、お前は誰だと言う。本当に覚えてないのか問いただす私に対し、おおらかだった彼女が冷たいものの言い方で私を払いのける。彼や彼女は今や別人である。彼が子供時分からの付き合いであれ、彼女がかけがえのない最愛の伴侶であれ、他人だと言われるのである。ここに、突如としてかつての関係性に終わりが訪れる。
私が知っていた者はもういない。いるのに、いない。これは死だろうか。肉体を維持した死だろうか。死んだのは記憶である。つまり人格は記憶の産物であった。この事実は我々に洞察を与える。人格やアイデンティティは記憶に条件づけられている。人とは記憶であり、私もまた記憶である。しかし彼も彼女も生きている。したがって記憶と生命は何の関係もない。記憶が欠けても生命には何の影響もない。記憶はマインドであり、マインドは生命と関係がない。ならば私とは何なのか。マインドが従来の活動を停止しても、生命に影響はなく、しかもなお私は存在している。人は記憶やマインドをもとに、自身がどのような人物であるかを決めている。存在の上に人格が築き上げられている。ここが重要なところである。人は、自身が考える通りになる。
自我もしくはマインドは、役者の性質を持っている。私が自作自演とよく言うのはそのためである。自身で演じる役を決めている。このことをジュワル・クール覚者は理解した上で、「あたかもそうであるかのように行動しなさい」と言った。ここに驚くべき秘訣が存在している。つまり、我々がどのような人物であれ、別人になることが可能であり、それは別の未来を拓くことが可能であることを意味している。いま不幸であれ、一瞬で幸福になることが可能である。いまのっぴきならない状況に置かれていたとして、必ずしも苦悩や悲哀に飲まれる必要がないことを意味している。つまるところ、マインドの統御により、出来事や世界の影響力は簡単に超越でき、また簡単に個人の意識は超越できることを意味している。ブレーキをかけているのは自分である。
言い換えれば、記憶が我々の運命を支配している。自分がどういう人物だと考えることの無意味さが理解されるであろうか。これが限定であり障害である。記憶つまりマインドが我々に限界を生み出しており、それによって無限の可能性が有限になっている。人が脳全体のわずか数%しか使用していないという意味の本質はここにある。人がもし本当にこのことを熟考し理解するならば、我々は記憶から自由になることができ、「現在」に導かれることが可能になる。それは新しい意識である。記憶は過去であり、また未来は記憶の投影である。したがって時間はマインドの産物である。もし記憶と同一化しないなら、マインドを超えたものと同一化することができ、記憶やマインドとは関係のない存在や生命そのものを知ることができ、我々から時間は取り除かれる。記憶に汚されていない純真な意識が取り戻される。それは全き現在であり、どのような重荷も存在しない完全なる自由である。
自分という物語に入っていることの無意味さが伝わるだろうか。このことさえ理解できれば、個人意識は超越される。時間という錯覚を超えて我々は現在である。これが永遠である。なにものの影響も受けない絶対の平和である。多くの初心者が現在を意識しようと活発に努めている。彼らは、その活発なマインドが統御された状態が現在だということを知らないのである。マインドで何かをしようとしている。瞑想もまた、マインドと自我で行っている。例えば、現在を知らない者は、瞑想中、ずっと何かが起こることを期待している。知識と記憶を投影し続けている。これらの動きの無知が理解されるだろう。理解されたとき、自然とマインドはおのれの無知におののき、静かになるものである。したがって、自我で集中しようと努力したり、呼吸法や特定の訓練に努めたりすることが、いかに瞑想を妨げているか理解されるだろう。つまり個人は何もしなくなるだろう。何もする必要がないことを知ることが瞑想である。全く何の修行も努力もなく、我々がすでにして現在であり、無限であり、永遠であり、至福であることに驚愕しつつ、それが当たり前であったことを理解するだろう。すべてを見えなくさせていたのは私であり、マインドという無知であったことが知られるだろう。