誕生日プレゼント

友人が、誕生日に人間関係で理不尽な目に遭った。人間関係は、己を肉体として生きている者にはやっかいなものである。田舎にありがちなことかもしれないが、小さなコミュニティから、いわゆる村八分のような宣告を受けたのである。なぜかというと、彼は勇敢だから、誰もが怖くて言えないことを堂々と強者の面前で言い放ったからである。たったこれだけで、そのあたりには住めなくしてやろうという報復が行われた。何が起きたか真相を私は知っている。その者が今は悪者にされているが、悪くない。人間にはしばしば三つのタイプがいる。弱き者を助けるために恐れず立ち向かう者、見て見ぬふりをすることで己を守る者、最後に悪に同調する者である。友人は腹を立てていた。私の前で唾の飛ぶ口が止まらなかった。

最高の誕生日プレゼントではないのか、と私は言った。その者たちと関わっていた時期、友人は神のみに生きていなかった。付き合いで酒を飲んだり、ゴルフをしたり、助け合いの名目の下で数々の霊的損失に屈していた。だから逆に一つでもデメリットがあるかと聞いた。霊的にである。自分や他人という分離で生きるならデメリットがあるだろう。怒りや復讐心にも飲まれるだろう。瞑想意識ならどうか。形態と形態には距離や分離が見えるが、目を瞑るならどうか。すべての本質は我である。すべての中で生き、動き、存在している唯一なる生命である。あるいは、魂意識に入る者であれば、一体的オーバーソウルである。

霊の道では、弟子道にそぐわない人や物や習慣から離脱できるよう、一見すると理不尽だとか不幸だとか見えるやり方で、神が現象的なプレゼントを与えてくれるものである。ここに気づける者と気づけぬ者とでは、その後の人生に強烈な違いを生み出す。友人は、出来事を不幸と受け取ったものだから、怒りに満ちて、その敵のことを「器が小さい」と表現した。だから言ったのだが、小さい器には小さい愛しか入っていないと。小さな器は、自分や家族といった身近な者に情を注ぐことがせいぜいである。最初から己を限定して生きているのだから、その矮小さに神や魂が存分に入ることなどできはしない。これを知り、その者には精一杯である事情を斟酌し、自分にはより孤独な人生、より人々から誤解される人生が待っているであろうが、臆することなく胸を張り、新たに与えられた時間と静かな環境のなかで、感謝して、神の道に邁進しようではないか。考えてもみてほしい。よくない付き合いで、酒を飲んだり遊んだりしなくてよくなったこと、しかも、自分から断りを入れるのではなく、向こうから断ってきたのだから、大変な恵まれ方ではないだろうか。その意味で、最高の誕生日プレゼントだと言ったのである。

この出来事を忘れてはならない。神が与えるプレゼントは、しばしば不幸の形を取る。そうでなければ誰が戻ってきますか。よくよくその意味を見つめ、神においてメリットとデメリットを考えて、神の道には決してデメリットなどないことを知り、逆に言えばメリットつまり恩寵しかないことも知り、分離のない意識に入れるようになるまでは、見た目に騙されず、精進して、しばしば弟子に起こるその類いの疎外や阻害にすら神の働きを見て、そう思おうとするのではなく、現実を見て本当にメリットしかないという分析結果と共に、よりいっそう、己をハートの神に捧げてもらいたい。その機会は与えられた。活用しないなら、理解するまで同じようなことが繰り返されるだろう。逃げようとしてよそに引っ越しても、同じようなことが新しい場所でも起こり続けるだろう。己が変わらぬ限りは定期的に。私はこれを確信を持って断言する。

これからは、嘘の噂を流され、仲の良かった者たちからも誤解の目で見られ嫌われるようになるだろう。これに逆らわないことが重要である。言いたい者には嘘を言わせておいて問題ない。神が真実を知っているからそれでいい。余裕があるなら、その敵に見える者のために、瞑想で伝導された愛のエネルギーを送ることである。そのときは、その者の姿や形態を心象化してしまうと難しいだろうから、己の魂とその者の魂が一つであることを心象化して、またそれを我という一つの意識において知り、方向づけをしたら個人的な意図や意思を絶対に介入させることなく、ただ魂から魂へと伝導される経路として愛の集中を保つだけである。これが愛の伝道師であり、迫害されてもひたすら愛で生きるというのが、瞑想に熟練した者が知る最高の知恵である。それは「向かうところ敵のない愛」である。

目次