諦める

進化の過程を述べるにあたり、進化方法全体が、単に物質が霊の表現体として完全に適したものになるよう物質様相を霊様相に適合させていく方法であるということを簡潔に述べる以外にするつもりはない。

アリス・ベイリー「宇宙の火 1」p.304
不幸な人生に原因はありますか。それはカルマで決まっていますか。原因があるならその原因を正して幸福や幸運な人生を引き寄せることはできますか。

幸福は不幸の原因である。なぜなら幸福とは自我のものであり、自我は幸福の中で個人に没頭し、真我を忘れるからである。そのため個人として霊的な間違いを犯し、新たなカルマを生み出し再び不幸へ移行するだけである。一方で、不幸が誤って解釈されるとき、それは幸福への逃避願望を生じさせ、自身というA地点から永遠にB地点という夢へと人を縛り付ける。これらの解決法は、幸不幸と関係のない真我を見出すことだけである。

とても不幸で苦しいとき、どうやって喜びや至福を感じることができるでしょうか。

あなたの場合、つまり意識が、物質に目を向けている。苦悩や不幸の感覚もまた物質のものであり、それを自分のものだと思うとき、抵抗する必要に駆られるのである。しかし、感覚であれ想念であれ、それらが自分のものではなく、つまり霊の様相ではなく物質の様相でしかないことを思い出すとき、それらと関わる必要がないことが知られ、重荷を下ろしていいこと、手放して問題ないことが知られ、物質もしくは外部とは反対方向である自身そのもので在ることが、そもそも喜びであり至福だったことを悟るのである。したがって、全く何もする必要がないという驚くべき答えが事実なのである。

それは進化した人にのみ当てはまることですか。

「物質が霊の表現体として完全に適したものになる」進化過程において、様々な内的メカニズムが発達する。これは長年の瞑想で自動的に構築されるものである。こうして徐々に、すべてが理解と共に自動的になる。それ以前は自我が将来に不安を抱くだろう。しかしどの自我の根源も真我であることを自我は忘れている。

つまり自我は何の方法も実践せず、瞑想でも何もせず、自動的にそのメカニズムは発達するというのですか。

すべきことがあるなら、あなたは魂からそれを教えられるだろう。つまり勝手にすべきことが分かるようになるし、できるようになる。しかし、する人というものはおらず、あなたが魂だということにいずれは気づかねばならない。

あなたは畑に種を蒔くかもしれないが、成長させ実らせる力はあなたの力ではない。瞑想も同じである。あなたは瞑想するかもしれないが、メカニズムを成長させ認識を実らせ融合へと導く力はあなたの力ではない。そのような力は最初から存在し、ずっとあなたを導こうとしてきた。それに今、ようやくあなたは気づこうとしているところである。気づいたら、その力に明け渡し、ただ融合していればいい。

瞑想で私の不幸な人生、惨めな生は終わると断言できますか。

そのようなことに関心がなくなるのである。なぜなら、あなた、つまり意識が関心を持つようになるのは、自身である真我になるからである。意識が自我へ目を向けるならば永遠に不幸だが、その個人意識から撤退できる霊的脱力が、メカニズムの発達によってやがて可能になる。あなたは自身を個人だと思い、個人でもがいている。瞑想者は、自身が瞑想者ではないことを知り、また自身が力でもないことを知り、何もできないし、その主体が存在しないのだから、何もしないことで本物と合一するのである。

では、人生には依然として不幸な出来事が起こるのでしょうか。

起こるが、不幸とは解釈である。よって以前ならば不幸に思えたことも、掴んでいる物を地面に落とせば重くなくなるように、それは最高度の幸福の中にただ消え去るのである。あなたは不幸を感じることが不可能になる。それぐらい、真我に守られるようになるだろう。これこそが守護霊である。

話を戻したいのですが、私は不幸にもはや耐えられないため、幸福を引き寄せたいのです。私の人生には繰り返し不幸ばかりが訪れます。これにあなたが助力できないならば、あなたは無能だとみなされるべきだと思います。

あなたの不幸の原因は、あなたである。あなたが放出する波動が、その線に沿って働くエネルギーを発動させ、あなたに不幸な出来事を現象化するのである。そのため、通常の教師は、正しい行い、正しい言葉、正しい想念へ導くことで波動を正常化(もしくは浄化)させようとするだろう。しかし、そのような正しさを可能にするのは、あなたではなく、より高次の力である。高次の力と接触し、それが自然もしくは調和であり、それ以外は不自然・不調和であることを瞑想を通して見出すならば、あなたはその違いを感覚的に区分けできるようになる。そして自然にのみ調和するよう自己を調整するならば、あなたの人生は良いものにならざるをえないだろう。幸運が頻繁に訪れ、幸福が訪れやすい人になるだろうが、そのときあなたは幸福と不幸に関心を持っていないだろう。あなたがそのとき執着するのは真我のみであり、それ以外はすべて不幸だとみなされるだろう。

高次の力と私は接触できないのです!

それでいいと思うべきである。自我が何を言おうが、それでいいとあなたが思い直すならば、自我は養分を得られず困ってしまう。よって騒音は静けさへと置き換えられ、高次の力が頭部のチャクラから流入し始めるだろう。どのようなネガティブな想念が浮かぼうが、それでいいと思ってもらいたい。それで良くないと思うから抵抗し、さらに騒音をかき鳴らすのである。これを悪循環と言う。だから、いかに自分について諦め、利己性を除去することが重要であるかが分かるであろう。何であれ諦めるしかない。諦めを学ぶまで、あなたは不幸を経験させられるだろう。執着の愚かしさを噛みしめるまで、悲哀と苦悩を引き寄せてしまうだろう。諦めさえすれば、個人の幸福や不幸にあなたは無関心になるだろう。あなたは個人ではなく真我であるため、どっちでもいいのである。この認識に至るまで、忍耐し、我慢し、全部諦めて、瞑想にハートを捧げるべきである。

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