人々は「教えてください」と言うが、実際は「知りたくない」ことに気づいていない。知ったら困ってしまうことを本能的に知っているだけである。また人々は「助けてください」と言うが、本当は「助かりたくない」ということ、助かったら終わりだということ、ゆえにいつも助けらる側に身を置いていたいのだということ、この自我の本性に気づこうとはしない。したがって、やたらと嘘くさく、芝居じみている。真に知るような者、助かるような者とは、これらの芝居や自作自演や自己劇化への自我の欲求よりも、苦痛が上回ってしまった者だけである。
愛してきた家族やペットが死んだとき、言い換えれば、自身の空虚や無能を埋めてくれる素材が失われたとき、もしくは埋めてくれていた記憶がある素材と存在が人生で失われたとき、その亡骸と抜け殻を前にして人々は泣く。悲しみ、まさに喪失感に苦しむ。そして、「私はどうなるの」と言う。「残された私はみじめだ」と嘆く。ひどい自己中心性だが、そのような自身の醜い性質に通常の人は気づくことなく、ただ悲しくて泣く。
最近、そういう人を見た。不謹慎に思われるかもしれないが、その泣いている人、その芝居を見て、私は笑いそうになった。というより、内心では笑っていた。なぜなら、その人は本当は自分が大丈夫であることを知っていたし、また何も死んでいないことも知っていたし、何にも影響を受けることがないこともまた知っていたにも関わらず、号泣という演じ方、表現の仕方で感覚知覚を楽しんでいるおのれに酔っていたからである。しばらくしてその人は、「泣いてすっきりした」ようだった。つまり、泣いているとき、ある種の快楽がそこにあったことをそれは指し示している。泣くことでその時の願望は叶えられたのである。
平均的な人間は、肉や魚を食べて生きているように、感覚知覚を食べることで生きながらえている。この世では、死や不幸や、あるいは達成や幸福といった様々な素材が提供されるため、感覚知覚を食べるために物事を劇化する自我の本能的な傾向を満たしてやることには事欠かない。肉体を食事で養うのと同じぐらい、アストラル体を感覚知覚や情緒といったもので養っているのである。そのために出来事を物語化するおのれ、その物語の中央に自身を据え置くという演出と細部の設定、つまり自分物語の一幕を即時に創り上げる能力に非常に長けており、この自動的な自己欺瞞を自我が維持するために、意図的に知性を無効化していたいという醜悪な意志を最高度に崇拝しているのである。
この場合、真の意味で知的である者も、一時的に知性を無効化するため、無知という犠牲を払ってまで、感覚知覚のような食物を得ようとする。アストラル体の飢餓から逃れるために無知を選択し、またメンタル体の飢餓から逃れるためにこの世の具体的知性で真の知性を覆い隠し、人生という映像の中で起きる出来事を巧みに劇場化し、自身が本当は安全であり大丈夫であることを知っていながら、恐れたり、悲しんだり、苦しんだりといったおのれの演技に酔い痴れている。
以上は、霊的な一体化とは逆の生き方、いわば低級な肉の欲求の奴隷になるという生き方の解剖学的叙述である。つまり、人々が知りたくない話である。だから、「教えてください」という人のほぼ全員が聞く耳を持っていない。本当は教わりたくない自分に気づける知性を無効化しているのだから、よほどのショックを与えないかぎり、基本的に教えることができないのである。最も良いショックとは、各々のその自己劇化で生じる苦痛である。アストラル・エレメンタルを養うために自作したその苦痛が、真に耐えられないレベルにまで高度化されたときだけである。つまり、発達したものだけが、最高度の苦痛を味わうことが可能になる。これほどのショックがなければ、立ち直りたいという欲求――肉ではなく霊に仕えたいという霊的欲求が上回ることはない。
だから、不幸を体験している者に、私はチャンスと喜びを見出すのである。ニサルガダッタ・マハラジに質問した人が、「私はとても不幸で苦しんでいます」と言ったとき、マハラジは「それはとても有用なことだ」と言ったが、そういうことである。我々は、無知を一時的に愉しんでいる意識に、不幸や災難やショックという恩恵が与えられることを喜ぶ。ただし、平均的な人間は、最初に述べたように、例えば泣いてすっきりして満たして元に戻るため、まだ助けようがない。未発達な人間においては、設定の脆弱な劇化、弱々しいショックを断続的かつ定期的に作り出すだけであるため、ほとんど意味はない。見習いの弟子のような、人間においては発達している意識たちの場合、普通の人とは比較にならない自我の芸術能力があるため、創り上げる劇もまた壮大なものであり、それによって被る(食する)苦悩もまた度を越したものがある。よって、いわゆる「暗夜」においては、自殺するか発狂するかくぐり抜けるかは、ほとんどギリギリである。
これを読んでいる何人かは真に苦しむ能力を持っており、そのことに私は喜んでいる。ただ、逃避的である場合、自殺のような間違った逃げ道が希望になるため、そこは導く必要がある場合もあるため、何年もこういう種類の文章を書いている。「どうすればいいか分からない」ほどの苦悩の対処は簡単である。諦めればいい。他人事だから言えるわけではない。私がそのような自己劇化であえて自分で苦しでいた時代、実際に私は諦めてきたのである。執着という執着をすべて諦めてきた。つまり、自分は不幸もしくは苦悩の人生でかまわないという境地になるまで一切を捨て去った。すると、心が軽くなることに気がついた。この意味は多くの人が分かると思うのである。ただし、実際に本気で自己とその執着する一切を捨て去る生き方をするには勇気がいる。この勇気は、ふりしぼるものではなく、仕方なくふるわねばならないたぐいの勇気である。人間の生き方は、結局のところ、負け戦である。物質的な生き方は敗北と破滅の道であり、一時的に勝利したとしてもその者は死ぬ。よく聞くような言い方をすれば、一円もあの世には持っていけない。したがって、生きているうちに、肉ではなく霊に仕えねばならないのである。肉にまつわる欲求はすべて諦め、霊つまり善や正しさといったものにだけ仕える生き方へと修正していくことが初期段階での目標である。
次に正しい性格構築が進展することで可能になる瞑想に入ったならば、あとは簡単である。真に自己放棄した者が必然的に導かれる瞑想というものは、この上ないもので人々を満たし、癒やしてくれる。すると、神性の素晴らしさ、美しさ、喜ばしさに恍惚となり、自分が人間ではなく、肉体ではなく、意識ですらなく、生命自体であるという途方もない解放の特権がやがて我がものとなる。こうしてひとたびアンターカラナが構築され貫通したならば、その後、よほど堕落しないかぎり、肉意識と霊意識の行き来は自由自在である。肉意識つまりこの世で活動するのは、この場合、その者にはいわばデメリットしかないように思われるだろうが、霊的意識に目覚めた者においては、すべては私であり、そのすべてが一なる神の目的に仕え、各々が計画の部分を担っていることを知るがゆえ、計画の完成へ奉仕することが最高の喜びであり、また最高の願望になるのである。肉の欲望は去り、霊の欲求つまり神の意志が媒体を貫く。これがどれほど素晴らしいことであるかを言葉で表すことは不可能にしても、信じてもらうように努めることは可能である。そして、この道を求める者においては、すべての者に達成は約束されており、一人たりとも資格不足や才能不足といったものはありえず、自分には無理だという自己劇化や自己設定に逃避しないかぎり、かつては「知りたいが実際は知りたくないもの」であったにせよ、啓明され、知恵の方が勝るようになり、真我が自我を導くようになる。
だから、道を塞いでいるのは自分であることをよくよく知り、すでに解放された高貴なる方々は常にこの世という舞台の背後から助けようとしておられることを知り、自身の無知を知恵で溶かすべく、瞑想に今日も励んでもらいたいと切に願うのである。正しく道を歩む者の瞑想とは、努力による瞑想では決してなく、静かであることが心地よいからという自発的なものであり、また、この世の生き方の苦痛を洗い流してくれる最高の癒やしであり、肉より霊に生きることを決意した弟子のような者にあっては、霊つまり真我のみが生である。肉体の人生は基本的にどうでもよく、神に生きるというこの神生のみが生、そして生命になる。まだまだ無限に話したいところだが、長いとまた言われるため、このくらいにしておく。