「この人は本物ですか」といった類いの質問について
本物とは唯一なる生命のことである。生命つまり霊が人間においてその表現をする場合、言い換えるとエネルギーが人間において表現される場合、諸体の光線や物質の質料、あるいは外部からのフォースなど、あらゆるものに制約を受け、条件づけられることになる。人間の場合、主役は純粋なエネルギーではなく、フォースに影響を受けたエネルギーである。その表現から、どのような進化段階にあるのかを推測することは容易であるが、進化段階の高低は、本物の表現における巧拙や純度の問題であり、本物でないものは存在していない。つまり本物しか存在していない。違うのは表現であり、表現における神の意志との差異であり、植物が動物より劣っているわけではないように、優劣もなければ、個人を否定するような要素もありはしない。
初心者が誰かを信じるに足るかを判断する場合、簡単なのは、その誰かが個人を強調しているのか、それ以上のものを強調しているかで判断できる。あるいは、もっともらしいことが書いてあったとしても、受け売りなのか、実際に自身の言葉で語っているかを見極める能力も必要になるだろう。また、最終的にセミナーや講座など、その者の個人的な利益に誘導する仕組みが存在するかどうかでも、識別が可能である。天の富を知る者が、どうしてこの世の富を求めるであろうか。おそらくこれは中学生でも理解できる。
瞑想による能力開発という話について
これも通常は霊ではなく物質の強調である。霊的つまりスピリチュアルという単語を隠れ蓑にする個人の強調であり、瞑想を個人的な利益のために利用できないか、というアストラル的な試みである。彼や彼女の焦点は肉体の私であり、関心のある舞台は物質界で輝きたい私である。この世の「瞑想」の目的の多くがアストラル・レベルに堕落しているのは、時代と、人類の進化段階の問題である。
これとは別に、高位からの刺激による必然的な低位の能力拡大という事実はある。しかしながら、そのような拡大を達成する者とは、早い段階で個人的な事柄に霊的能力を使用しないことを実証してきた弟子たちであり、彼らの能力は、物質界において言えば、事実上の兄弟姉妹の助力や援助といったものへしか向けられることはないし、そこから私的な利益を得ることもない。簡単に言えば、彼らはすでに個人を犠牲の祭壇に捧げており、結果として、奉仕における「魂の窮境」から高等な能力が喚起されただけである。
以上で質問には答えたため別の話に移る。流れとしては、質問に関連した話がいいだろう。「物質界で輝きたい私」や、個人的な目的のために瞑想やヨーガに関心を寄せている人に、パーソナリティー以上のものの話をしても本質的には通じることはない。なぜなら彼や彼女には、この世でやり残したこと、達成していない願望が存在しており、したがって必要なのは、その願望を達成し経験するための数多の生涯であり、それらの生涯において、外の世界には一つも価値あるものがないことを徐々に学びゆくことである。こうして、外部から押し出されるかのように、まるで弾き飛ばされるかのように、この世のいかなる願望や執着からも撤退を余儀なくされつつあるのが見習いの弟子や第一段階のイニシエートであるが、彼らへ適切な情報を与える教えや書物はあまりない。ゆえに迷い、しばしば師から師を渡り歩き、騙されたり失望したりしながら、結局は他者へ依存しがちな自身の在り方や弱さを見つめ直す機会が与えられる。このような、物質界に居場所はないが、霊的な何かを発見してもいない「魂の闇夜」の時期が、おそらく一番辛い。それは捨て子のようなものであり、父も母もなく、帰るべき家もなく、引き取ってくれる者もまだ現れていない悲しく孤独な状況である。
捨て子が身につける能力は忍耐力である。そこでは、耐えるしか方法がない。耐える苦しみを緩和するためには、少しずつ執着しているものを手放す必要があることにやがて気づく。こうして、耐えることと諦めることを同時に学ぶようになり、最終的には、自分事より他人を重視した生き方に転換することで大幅に苦しみが軽減されることを発見する。清々しい気持ちで、「自分については諦めよう」と言えるようになる。こうして肩の荷が下りる。苦しむ兄弟姉妹のために生きようと彼は決意し、実際にそうなるべく努めるが、次は、助力や援助を与えた相手から唾を吐かれるという経験に幾度となく遭遇する。何でやねんと憤りつつ自問自答するうちに、見返りを求めない精神を身につけるようになる。言い換えると、見返りは必要な要素ではなくなり、ただ与えること、ただ分かち合うこと、ただ助け合うことだけで喜び充足するようになる。こうして、徐々に普遍的な愛や、普遍的な一体性へと近づく権利を獲得するようになる。それは彼がより純粋で経験豊かな熟練の奉仕者として器を磨き上げたがゆえである。奉仕と無私はセットであることを彼は理解し、個人の意志と神の意志をより識別できるようになり、奉仕つまり神の意志との一致のために喜んで自分を犠牲にするようになる。このとき、個人においては犠牲であるかもしれないが、彼の偏極と焦点が魂へと移行するため、真の犠牲には常に喜びや美しさが伴うことを発見し、それは犠牲ではなくなる。
この世の修行者はこのあたりを曲解している場合があり、何かを得るために自分を犠牲にするという、取引のための独りよがりな努力に終始している。おそらく、最初に報酬に目が眩んだせいであろう。霊的な何かを手に入れたいとか、手にいれることで何かから逃れたいとか、個人が強調されることで、何も霊的に達成できないという矛盾に苦しんでいる。霊的な修行ではなかったことに気づくまで、その一人相撲は続くであろう。逆に言えば、この間違いについて徹底的に考え抜き、自身という器の汚れた部分を見つけ出すことである。そして、汚れを洗い落とそうとするのではなく、洗い落とすことができる真の清純は上からの力であることを知り、個人的な努力という一人相撲を卒業して、高位我に低位我を明け渡すという意味を早めに理解すべきである。汚れた者が、その汚れた手で汚れた体をきれいにできないことを認め、高位我の清潔な水とシャワーを波動という形で頭部から受け取ることを瞑想で学ばねばならない。
今はまだ、ほとんどの方が高位我を知らず、低位我の欲求に騙されている。瞑想し続けるしかないだろう。救い主は上から降りてくる。人間の場合は頭部である。頭部から、低位我は高位我と連結できるようになる。しかしながら、長いから最後にするが、あまり深刻にならないよう気をつけるべきである。深刻になっている時点で、もう間違っているからである。急いだり、結果を早く求めたりすることは、グラマーである。そのようなアストラル性質に屈するならば、より状況は悪化するだろう。だから、ゆっくり進むのが一番であり、そのゆっくりの中には、適度な娯楽と休息が常に含まれることも覚えておかねばならない。追い込みすぎる人間の癖は、必要とされる高位我の到来を妨げるだけである。
あまりにも熱心に、精力的に、猛烈に、霊的な生活に励まないようにしなさい。霊的な生活とは存在の状態であって、達成の状態ではない。それは、正しい方向を向き、そちらに方向づけられている状態であって、ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力ではない。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」p.450
