質問と所感2

瞑想が自我瞑想になっているかどうかは自分でわかるのでしょうか

自分が自我である。したがって、融合あるいは整列するまでは、誰もが大なり小なり自我瞑想の要素を持つ。自我が魂と接触していない場合、完全に自我瞑想であるため、危険なことや無益なことをやりやすい。まだ、瞑想するのが自分(自我)であると思っているのである。ここで、この段階における悪い瞑想の判断の基準を述べる。最も重要なのは、苦痛を伴う瞑想は危険に直結しようとしているとみなすべきである。ただし、そもそも乱れた気を放置した結果、不幸や苦悩や悲嘆に打ちひしがれ、瞑想の道に入ってきた者もいるゆえ、このような場合は、最初から苦痛であるか、高位我に逆らって何かを行うことが当たり前になっていて、もはやそこに苦痛を感じることがなくなっているという可能性がある。そして、ほとんどの瞑想者がこの段階にあり、頭痛に見舞われるなど、よっぽど間違ったことをやり続けない限り苦痛を認識できない。別の言い方をしよう。瞑想は最終的にはマインドの統御であり集中をもたらすものであるが、それ以前の段階では、アストラル体の統御が瞑想の目標である。さらに言い換えると、第二イニシエーションが目標である者が、第三イニシエーションの準備をしている者が習得する内容に挑戦しようとしても不可能である。

例えばラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、第三イニシエーション以降の意識から語っている。その内容もしくは方法は、それを読むほとんどの人に当てはまらない瞑想である。「私は誰か」と必死で唱え続けることが真我探求だと思っている人がこの世にたくさんいるし、過去にもたくさんいた。彼らは次に、何も起きないという事実に直面し、そのうちやらなくなる。これがいつものパターンである。ニサルガダッタ・マハラジが「私のアドバイスに従いなさい」と言ったとき、或る質問者は次のように答えた。「すでに、何百万の人たちがあなたのアドバイスに従っています」と。これに対するマハラジの応答は記載されていない。つまり何も言わなかったのだろう。

人それぞれ、段階がある。また性質も異なる。瞑想の基本は同じであるが、理解に到達するまでの道は、その多様性ゆえに同一のものではありえない。このことをクリシュナムルティは説いてきたのである。誰かの方法で到達しようとするならば、見ているのは報酬であり、決して己ではない。彼らは、霊的な何らかの状態が欲しいだけである。それを得るために方法を探し、それを試し、失敗するだけである。そのためブラヴァツキーは次のように言った。

条件づけられた存在から自分自身を解放することが、人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において行為は役に立つ。

実践的オカルティズム

どのようにして、自我が自我を解放するのだろうか。不可能である。低位我は、次元的により高次の高位我とまず接触することで、何が正しく本物であるかを学ぶものである。瞑想も、この内なる師、内なる魂から学ぶのであって、決して書物からではない。実践は、内在の実践者と一致することでしか理解できない。これを知らず、条件づけられた存在でしかない自我で、その条件づけられた状態の意味も理解せぬままに、自分が行為者であるという錯覚のもと、自分で何かに到達しようとすることは、間違っているのである。だから前回の記事で最後に引用したジュワル・クールの言葉はこう言っている。

霊的な生活とは存在の状態であって、達成の状態ではない。それは、正しい方向を向き、そちらに方向づけられている状態であって、ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力ではない。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」p.450

以上が分からない場合、その根本原因は、まだ魂と接触していないためである。接触していないのは、時期尚早であるという意味である。なぜ時期尚早であるのかを自分を見て知ることが、「汝自身を知れ」という教訓が示す意味である。何が不純なのか。多くの初心者の瞑想の動機が欲望や恐怖からの逃避である。つまり、彼らの目標はアストラル体の統御であって、メンタル体ではない。この基本的な教えが広まらないのは、真の瞑想が広まっては困る者たちが大勢いるからである。その一人があなたである。つまり自我である。アストラル偏極している自我である。

眉間の波動が感じられる時と感じられない時の違いはなんでしょうか。

感じられる者は、正しい瞑想を続けることで、すぐに途切れることのない魂との連結が確立される。だから、感じられないときはなくなる。その後、魂と融合することで、そのレベルの波動を感じるということはなくなるだろう。例えば、平均的な自我が、自身を条件づけているフォースつまり波動を認識していないのは、その波動と一致しているからである。逆に魂と一致している者が、自我を条件づけている波動に影響を受けそうになったならば、即座にそれは苦痛として認識される。エネルギーとフォースの戦争に巻き込まれたからである。

魂の波動の影響つまり刺激について、その意識段階に限定した言い方ではあるが、ジュワル・クールは次のように述べている。

私は、エネルギーの存在を認識することの必要性を首尾一貫して強調してきた。オカルティズム(もしくは秘教)において、私たちは「エネルギー」という言葉を霊的な領域とその霊的な存在つまり魂の生き生きとした活動を意味するものとして使っている。「フォース」という言葉は様々な自然王国の領域での形態性質の活動を意味するものとして使っている。これは、際立って興味深い点であり、違いが示されている。

したがって、刺激とは、エネルギーがフォースに与える影響と定義してもよいであろう。それは、魂が形態に与える影響、神性の高位表現がいわゆる低位表現に与える影響である。

秘教心理学 第二巻(下) p.71

我々の自我を、フォースの束あるいはフォースの集合体と考えると良いだろう。これが肉体など目に見える形態を動かすものである。人間においては、主にアストラル・フォースが彼を動かす原因である。東大を首席で卒業しようが、彼らの鍛えられた具体マインドでは、オカルトつまり隠された領域のものを見い出すことはできない。彼らはただ条件づけられているだけである。したがってアストラル偏極であり、その段階を脱してメンタル偏極している者は人類のごくごく一部であり、さらに魂に偏極している者は滅多にいない。人類の大問題であるこのアストラル偏極――アストラル・エレメンタルの要求と欲求を満たすことが人生であり幸福であり希望である人たちが、その生き方に限界を感じ、霊的な学習に腹落ちするようになり、瞑想で実際に静かにするようになり、魂のエネルギーが眉の上のあたりまで降りて来はじめたならば、そのエネルギーが我々というフォース体に影響を与え出したという真の栄光の始まりを認識し、それまでのようにフォースではなく、エネルギーが真に一致すべき波動つまりリズムであることを瞑想で実践的に知り、エネルギーとフォースを識別した生活を送るようになり、三界のフォースから影響を受けぬために、つまり条件づけられぬために、魂のエネルギーに意識を眉間から焦点化し、その影響下に入り続けるということが、瞑想と霊的生活の基本なのである。これを達成している672夜の読者は何人か存在している。彼らはこのような話が事実であることをかつては知らなかったが、いまは知っている。

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