- 最近、努力が減っていき、行為の感覚も弱まったように感じています。……(真我覚醒した聖者の状態に関する書物からの引用や、ラマナ・マハルシが努力が必要であると言っているなどの話が続く)……よって、自我に努力が全くいらなくなるということはないはずです。
これらはすべて、自我の側からの解釈です。つまり、単に努力している自分という想念や感覚があり、それらと誤ってご自身を同一化しておられるだけです。つまり同一化さえなければ、あなたの問いは生まれませんでした。
簡単に説明したいと思います。元は一つでも、二つのタイプのエネルギーがあり、一つは個人を動かすエネルギー、もう一つは真我からのエネルギーです。上から流入するエネルギーと、下で表現として流出されるエネルギーと考えてもらってもかまいません。
真我からのエネルギーは神聖で純粋です。この純粋なエネルギーが、我々の純化されていない諸体、つまり肉体-アストラル体-低位メンタル体という三重の個人体を通過するとき、不純なフォースとして排出されます。あなたの思考、あなたの言葉、あなたの情緒、あなたの行為として表現され、そう感じられます。これら、低位の諸体を通った後のエネルギーを、冒頭で個人を動かすエネルギーと言いました。あなたの場合、この個人的なエネルギー表現と、真の霊的自己であるあなた自身を同一化ないしは同一視なさっており、単なる行為という現象の上に、「自分の努力」という解釈を上乗せしている状況にあります。
努力が必要か不要かではなく、努力をする人は存在しないのです。存在するという想念があるだけです。それは、目に見えるあなたの肉体や、五感を通しての様々な感覚や、(同一化しているから自分のものと思われる)想念のエネルギーに従って肉体が動いているさまを見て、その映像に、「自分」を上乗せしているだけなのです。
あなたが、あなたという諸体を動かすエネルギーを、冒頭で述べた後者の神聖なエネルギーに従わせるならば、あなたに努力の感覚はなくなります。努力という解釈をさせる、あなたがいなくなります。重荷という重荷がおろされます。これは、低位メンタル体をしずめる能力に依存しています。その前提は、アストラル体をしずめていることであり、いずれもしずめるのは、後者のエネルギー存在によってです。
この、後者の純粋なエネルギーが、あなたである三つの諸体によって歪められることなく通過できるようにさせるために、我々は瞑想しています。神聖なものを歪めるのではなく、神聖なものを歪めずに表現できるようにするために、三つの体に瞑想で働きかけています。我々は、諸体を構成する質料に働きかけているのであり、我々の体を構成する物質がより高い等級のもの、より高位の亜界の物質になるとき、その度合に応じて意識が変わります。受信できるもの、送信できるものが変わります。
これを、瞑想に慣れた人たちは、瞑想中であれ日常であれ、意識的に行っているのです。個人を動かすエネルギーを、神という原理に従わないエネルギーと考えてみてください。また、神という原理に沿った働きをするエネルギーを、頭部のチャクラを通して流入させるようになると考えてみてください。あとは、このエネルギーがしだいに強化され、存在とも呼ぶべきものへと移行させ、波動というよりも、存在そのものが、あるいは力が、我々の主になります。こうして融合が進み、魂意識が発達し、諸体には高位亜界の物質が組み込まれ純化され、これに応じてあなたという感覚は弱体化します。努力している者はいません。一つの力、一つの意志が、すべてを表現し動かしているさまを、自我は真我において大人しくなって知るだけです。このとき、あなたは全ての克服された錯覚に無関心の状態です。こうして、自我は高位の力に自身を完全に自発的に委ねるようになります。自我は真我によって掴まれたのです。
これが、あなたがしばしば表現する「明け渡しのプロセス」です。自我は努力するでしょう。元気ですから。このような力はなくなっていきます。頭部から流入する内なる波動が力を増して我々を掴み、その流れに逆らうから苦痛であることを知り、何もしなくなります。完全に流れそのものと一体化するようになります。これが大海つまり真我を啓示するのです。そのため、滞りなく、また歪められることなく、神聖なエネルギーを流入流出させうる経路に、人という三重の物質体はなることができます。これが達成された障害のない意識を、我々は至福や喜びや平和と呼びます。そしてこの意識を通して働く力は、まさに愛なのです。
- 過去の記事に、試行錯誤されてきたと書いてありました。その努力があった時期に、何が自我に効果的だったかを教えてください。試行錯誤されたなら、そのどれかの努力が効果的だったのだと思います。
そもそも、時間も記憶も出来事も、想念もしくは誤った解釈ではないでしょうか。真の我々は、そのような錯覚とは一切、全く関係していないのです。しかし自我の見地からすれば、試行錯誤は、すべて、試行錯誤が無意味であることを知るためのものだと言った方が良いでしょう。かつての私の中に、自身を手放すように強いてくる力が現れ、この強制力に抗うことは決して出来ないということを”人生経験”の中で認めさせられ、抵抗を徐々にやめるようになったというだけです。なぜなら、彼の力にいわば”入った”とき、どのような不調和からも解放され、調和の何たるかを知るようになったからです。私は苦痛だったかもしれませんが、それは自作自演であり、無知のためであり、偽りの自分を主張したりしがみついていたからであり、それを手放しにかかる力を彼は最初は脳の病気だと思い、アリス・ベイリーなどの書物に自身のいわば症状が正確に描写してあるものですから、自分だけではないことを知り、”先人”に習う価値があると思い、また内なる力を生の全幅に渡って信頼するようになり、それによって力が、ただ彼から徐々に無知を剥ぎ取っていったのです。そのようなわけで、まず神聖な力や波動(最初は魂の波動)を頭部から流入させられるようになること、霊的な感受性の発達が基本ではないかと考えるのです。つまり、このようにして自身である魂と接触し始めることが、最初に起こらねばならないことだと考えます。
じゃあどうすれば波動を流入させられるようになるのかと言うと、それは各々によって違いはあれど、共通して勧められるものは、やはり瞑想です。正しい瞑想と言うより、間違った瞑想、間違った自身の表現を知っていくことが重要だと思います。どうやってその間違いを認識するかと言うと、苦痛です。間違っているとき、必ず苦痛が伴います。つまり抵抗しているときです。流入する神聖な波動と苦痛という自我の波動を調和させられるようになったとき、苦痛は非常に目をみはるばかり内なる知恵への鍵であることを私は知りました。世の中で何が嫌かというと苦痛でした。それで、苦痛から逃げまくって生きてきましたが、絶対に人生は苦痛でした。それで、もう逃げられないということになりました。言い換えれば、苦痛でいいと思いました。もうどっちでもいいとなりました。すると、一気に楽になりました。良い悪いがなくなるとき、直面できることを知りました。苦痛を見たら苦痛感は消えました。見た瞬間にありませんでした。自分で錯覚を作り上げていたことを理解しました。このようなトリックへの開眼が、私がフォースや形態に関心を持つ機会になったと思います。なぜなら、フォースを統御しさえすれば、何の問題もなくなるからです。
皆さん、感情と割り切りますが、それは物です。操作したり変性させたりできる物質です。これは見た瞬間に消えます。高位に上げられます。最初は、なんで消えるのだろうと考えました。そもそもないことが即座に理解できます。ないものを作り上げていたことを知ります。非実在の世界にあっては、全部、このような自作に、われわれは自演しているだけだという事実に驚くとともに、これを人々に伝えたいと願いました。なぜなら、この世から苦痛がなくなるからです。本当に苦痛のないとき(そのように言うのも平均的な人類は精妙な苦痛をまだ感じられないからですが)、それは調和しているのであり、ひいては本当の我へと導きます。
いま、苦しんでいる人は、外側の人間が苦しんでいても、なんて幸せだろうと言うと思います。自分のことなど眼中になくなり、溶け込んで、愛一体を知ります。これは自我からすれば、内というより外です。内も外もありませんが、多くの修行者は、自分のことに夢中です。私は自分の苦痛で精一杯でした。特定の不幸によって苦痛だったわけではありません。生が、物心ついた瞬間から苦痛なのです。他の人が求めているものを所有したり体験したりしても、ことごとく苦痛が上積みになり、いらない、という答えが結局は導き出されますから、何が苦痛の原因かを研究しました。簡単な答えでした。自我に生きていたからです。内なるものと接触していたにも関わらず、まだでも自分で考えたりしていたから何も分からず、このような自我の活動が、真我の生命活動を妨害し萎縮させ、この抵抗と摩擦、不調和が、まさにひどい苦痛を感じさせていたことを知りました。
真我という「向かうところ敵のない愛」を私は知ったゆえに、そのときから彼において怖いものなしです。無知ゆえ、粗暴な生活に身を投じ、殺害されるか、殺害するか、あるいは捕まる前に自殺するか、などと周囲の者が一人また一人と死んでゆくなかで考えその場限りに暮らしていましたが、このような無知や分離から自由であるとき、なんという愛かとこの神聖エネルギーに驚愕しました。見える物、個別の人という人、これを本物と錯覚し、その背後の生命が分からなかったゆえ、あいつは許さない、あいつは殺そう、そのような、偽の現実で一番にならないと気がすまない、我慢ならないと思い込み、第一光線と第四光線に条件付けられて生きていましたから、生は不調和と破壊であり、光線の悪い側面がそのまま世界に反映され、大変な罪を重ねまくりました。罪を犯し、その種を悲劇や苦痛で刈り取る悪循環の男に、なんで神聖エネルギーが来るのだろうか。皆さんにも来ていることを私は知ります。感受性がかき消されているだけだと言います。ただ、私の場合はゆきすぎた暴走の苦痛がそれに目を向けさせたのであり、皆さんも、本当におのれに直面させられるなら、これを知ると思うのですが、こういう極端なことをせずとも、瞑想があったことをその後に私は知りました。だから、すぐに効果がないといって数年や数十年で諦めないでください。むしろ、効果を求めないでください。我々は、人類は、もはや正しく生きるより他になく、それによってしかこの悪夢より抜け出すことはできないと思います。
十分に長くなったからもう少しだけ付け加えます。しばらく前、家族と日本のドラマを久しぶりに見ました。「THE DAYS」という3.11のドラマです。これを見ていた者の一人が次のように言いました。「本当に生死に関わるとき、自作自演なんかしていられないよね」と。ここに気づく者のなんと少なきことか。例えば身の安全が確保され、仮設住宅などに落ち着いた後にのみ、自作自演は始まります。なんて惨めな自分かと自己憐憫がはじまります。死んだ者の無念に涙したり、もうその者と会えぬこと、もっと生きているうちにああしていればよかったとか、物語が始まるわけです。私も何度か洪水で死にかけました。知り合いや友人は何人も流され、飼っていた犬も助けられず死にました。災害を経験していないわけではないのです。家も破壊されました。思い出ごと全部流されました。何も冷酷な性格だから言っているのではありません。自分で作り上げたものと、そうでないものの違いを知るならば、そして何より、それらの非実在から離れた内なる者に安定するならば、我々における現実というドラマが何を映し出そうが、関係ないと言えるようになると私は思います。本当に、関係していないのです。自我において関係したとき、偽物と同一化したとき、物語は始まります。生死を分けるような極限の何かに直面したとき、自作自演の余地はなく、同一化ができなくなり、真実に直面する可能性が高まりますが、我々には日々に瞑想という助け舟があるため、極端な目に遭う必要はないのです。ただ無欲に瞑想。結果はどうでもいい。明日も瞑想。次の日も瞑想。徐々に、内なる者が力を増してくるでしょう。それはゆっくりですが、確実であることを知り、愛を知って、恐れから解放されてください。存在を知って、求めることから解放されてください。自由です。
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