1つ目は魂のエネルギーの利用についての質問です。と言いますのも今日の真昼頃、私は愚かにも牛乳を飲みすぎて腹痛を起こしたのですが、その時、魂のエネルギーを利用することを思い出し、魂に集中して頭頂からのエネルギーを利用しようと試みました。(魂の目からフォースを見ることについてはまだ理解していなかったので、ただ魂に集中しました。)すると頭頂からの心地よいエネルギーが意識を満たし、ほんの2,3秒でしたが苦痛の意識が心地よい意識に上書きされるということが起こりました。短い時間でしたが絶対に気のせいではありませんでした。そして、その時私はこの現象を考察しようとし、思い出しました。私は生まれつき腹痛や頭痛になりやすく、以前はよく腹痛などが起こると体の別の部位(腕やもも)を血が滲むまでつねるなどして痛めつけることで意識から腹痛を別の痛みで無意識に追いやろうとしていたことがあるのです。言い換えれば、意識の少なくとも瞬間瞬間には一つのことにしか焦点を合わせることができないという性質を利用し、別のものに焦点を合わせることで前に意識を占有していたものを意識内から除外しようとしていたわけです。このことが今回の苦痛が魂のエネルギーによって上書きされるという体験にも当てはまるのではないかと考察したしだいなのですがどう思われますか?また魂のエネルギーの利用について、魂の目から見たわけではなかったのですが、これで正しかったのでしょうか?
水平と垂直の違いを理解しないといけない。「意識の少なくとも瞬間瞬間には一つのことにしか焦点を合わせることができないという性質」は水平であり、魂のエネルギーとパーソナリティーのフォースは垂直である。この後者の上から下を、意図的に下の世界で活用しているのが瞑想と魂に通じたオカルトの弟子たちである。そうすることで、下にあるものが上に引きあげられ、物質は霊によって贖われるのである。この考察は神の目的、つまり我々がなぜ人間として生きているのかの考察である。
上書きについては、魂の目を通して対象に集中的に照射して破壊することも可能だが、質問者のように魂の意識に集中する方法でも当然ながら問題ない。低位のリズムは、高位のリズムによって簡単に無効化することが可能であり、このようにして弟子は、集中している焦点を外から内へ、パーソナリティーから魂へと移行しなければならない。このようにすることで整列と調和が達成され、わずかであれ達成された場合は、あらゆる苦痛は喜びや素晴らしさや美しさで満たされるようになる。それはこの世のどのようなものよりも純粋で心地よいものである。考察すべきは、この整列と調和である。そのためには、フォースに対するエネルギーの適用という課題を習得しなければならない。それは本質的に観照と関係しており、霊的な無関与に関する学習である。それは主に瞑想によって達成される。
2つ目は友についてです。私には親しい友と家族がおり、彼らに私が多少なりとも学んだ霊的な知識を打ち明けるべきかどうか迷っています。彼らにこのようなことを伝えても、一笑に付されるか、気狂いだと思われるだけの可能性がかなり高いとは思うのですが・・・彼らが・・・道の人が笑って済ますような些細なことで怒り、悲しみ、恐怖し、苦悩するところを見ると・・・見るに忍びないものがあります。これらが仮像だということ、彼らの魂は平気なこと、彼らにも学びの経験が必要な事、私が本質的には助けになれず自分で見出す必要があること、私が知識を共有したところで恩寵がなければどうしようもないこと、これらのことは考えました。ですが、このよう道もあることを示すくらいのことはするのが人としてのせめてもの道義なのではないかとも思います。私は彼らに介入しないべきでしょうか。介入するとしたら私が彼らにできる最高の助けとは何でしょうか?
一般的に言えば介入すべきではない。私は何と思われても構わなかったため何でも素直に話したが、理解する者、真剣に興味を示す者はほとんど存在しなかった。672夜の場合もそうであり、真剣に興味を示す者だけが「隠された領域」を発見する。つまり魂を発見し、魂と後に融合し、仮相や仮象や現象から自由になる。このようになったとき、「人としてのせめてもの道義」が錯覚であることが理解されるだろう。神はより知っておられる。神はすでにすべての面倒をみておられる。それは、我々が自分の意志ではなく、背後の一箇の神の意志を発見したときに理解されることである。
3つ目は欲望についてです。私はまだ自我意識の時が多く、よく性欲や食欲に溺れる傾向があります。一連の流れとしては暇を持て余しており、魂のエネルギーが降りていない時に下っ腹(胸以下)からの邪な気、ひりつくような渇き、じっとしていれない焦燥感、満たされなさの感じが這い上がって来るのです。そしてそれが自我意識の時に来ると居ても立っても居られず、過食や自慰に走ってしまうのです。自分でもこの悪癖が霊的な進歩を妨げ、自分を破滅に導くだろうことは自覚しているのですが、どうしてもやめられずこのループから抜けられないのです。また私(自我)がこの欲望に対して抑圧すれば反発を、開き直れば放縦を招くでしょう。私はこの問題に対しどう向き合うべきでしょうか。この欲望に向かう衝動に対しても魂のエネルギーは有効なのでしょうか?ただ・・・これら全ての問題視自体を自我の騒音に過ぎないとして無視すべきでしょうか。何か助言をいただけないでしょうか?
アストラル界のフォースはみぞおちの太陽叢センターから出入りする。よって、「下っ腹(胸以下)からの邪な気、ひりつくような渇き、じっとしていれない焦燥感、満たされなさの感じ」もまた、低位我のフォースでしかなく、魂つまり高位我のエネルギーによって上書きする習慣を身につけねばならない。とはいえ、弟子が発見し、また挫折を感じるのは、自分にはまだ統御できないフォースが存在するということである。したがって過食や自慰行為などをあえて問題化しないようにし、可能なときに行われる瞑想と整列によって諸体の波動を高めることに焦らず気長に専念すべきである。というのも、魂の計画はゆっくり遂行されるからである。そうして性欲は徐々になくなり、そのような低位の交わりは嫌なものになるだろうが、完全に性欲がなくなるのは理論的に第四イニシエーションと関係しており、それは先の話であるゆえ気にせず、今は魂に没頭すべきである。
魂に専念するにつれ、「自分が行う行為」というものは消滅するだろう。まだあなたはパーソナリティーを自分だと思っており、いわゆる行為者の感覚に惑わされている。その背後の観照する魂、純粋な意識に焦点を戻し、個人意識が魂意識により上書きされるにつれ、自分が個人とは関係がないことを理解するだろう。偽我と真我を明確に識別するようになるだろう。ちょうどあなたが上書きの経験を持ったように、個人が魂に上書きされ、個人意識は無づけようのない意識によって切り離されるだろう。次元は超越されるだろう。弟子がいかなるときも冷静なのはこの背後の一者と融合しているからである。この場合、揺れ動きようがない。よって、この世の話や見せられる現象に影響を受けることもない。知られるのは常に真善美であり神である。
