人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ。
ドストエフスキー
超人は、自身が不幸でも幸福でもどちらでもよく、無関心である。幸不幸の指標は別のマインドの判断か推測であり、超人自体は常に至福であり、幸福も不幸も知らない意識状態にある。
人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。
ドストエフスキー
幸不幸は表裏一体であり、片方がもう片方によって成り立っており、どちらかだけを掴めるものではない。見習いの弟子はこのことを悟り、相反する対を為すものに対してバランスを取るようになる。どちらとも関わらないようになる。そのときだけ、聖なる中道が発見されうる。弟子は中道を発見し終え、その細く切り立った道を実際に辿ることで人間の意識を超越する。こうしてイニシエートつまり超人は最初から存在していた至福の源に到達する。この領域にはいかなる二元もない。よって至福は永遠である。
希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。
ドストエフスキー
超人にはいかなる希望もない。彼自体が希望である。人間は、自身ではない別のどこかや何かに希望を見出し追いかける。見習いの弟子はこの繰り返しに疲れ果て、追い求めてきたものすべてが偽物であることを理解する。弟子はすでに踵を返しており、自己自身に集中している。換言すると、物質ではなく魂に焦点を向け直すことに成功している。イニシエートは魂ですら粗雑な物質と見なしており、彼は霊のみに集中している。これは観照である。一方で、人間は目に見える物質が実在だと思っている。感覚知覚が可能なものが本物だと考えている。人間の錯覚は物質によって成り立っており、人間の幸不幸は物質に依存し、物質と自己同一化することで発生する感覚知覚に依存している。これが無知である。道に入った者だけが、物質よりも波動の高いもの、目にみえないもの、真実であるものを識別できるようになる。このとき、弟子は一切の希望を所有していない。なぜなら、人間の希望とは物質的なものであり、希望そのものがカーマ・マナス的な物質であり、弟子は三界の物質から孤立することを瞑想で学び、何であれ自身とは無関係であることを見出し、物質と現象の世界を超越した意識領域を開拓しているからである。こうして人は超人になる。
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。
ドストエフスキー
興奮や快楽や幸福は、いずれも三界の物質に由来する感覚的なものである。霊的な喜びや至福もまた感覚的ではあるが、違うのは、それが知覚されているあいだは低位の感覚が打ち消されるということ、そして霊的知覚は三界における人間の意識が超越された意識領域であるという点で全く異なる。前者は、経験への渇望を可能にさせるアストラル的ないしはメンタル的なフォースと同一化したときに生じるものであり、終わりのない探求である。後者は、三界を超えた名づけえぬ何かと同一化しているときに生じるものであり、人間の道を飛び越えて神の道に入ったことを裏付ける終末的なものである。これが神道である。物質を通して霊が十分に経験を積んだとき、経験の領域への渇望の萎縮を人は経験するようになる。なぜなら、彼はあるがままの状態がベストであることを知りつつあるからである。
優れた人間とは、自分自身に多くを課す者のことであり、凡俗な人間とは、自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔している者である。
オルテガ・イ・ガセット
超人とは、自分自身に何も課さない者のことであり、凡俗な人間とは、常に自分自身に多くを課すことで自己陶酔している痴れ者のことである。よって、超人は常に現在あるがままのもので満足する。多くを自身に課す経験の世界は遥か昔に卒業されている。優れていない人間は、優劣に幸不幸を見出し生きているため、常に無知であり己にも他人にも不寛容である。ゆえに生涯で一度も真の幸福を知ることはなく、その不幸ゆえに他者や人類に対して有害である。超人は、超人であるがゆえ、その現在あるがままに満足し、自足し、自己陶酔しており、言い換えると、超人を可能ならしめている唯一なる自己つまり神に酔い痴れているがゆえ、常に平和であり無害である。
人間の驕り高ぶった格言は、自身が人間であるという思い込みから生じている。自身が存在するとき他人が存在し、ゆえに対人恐怖から、優劣を競わねばならず、肉体的にも精神的にも傷つかないで生きるために人生を闘争的なものに仕立て上げねばならなくなる。我々が瞑想するならば、形態の世界がまやかしであることに気づくだろう。それは目に見えるというだけである。目に見えるようにさせたり、見えるものを動かしたりしている力は、目に見えないものである。瞑想は、形態の背後の神性に人の意識を貫通させる技術である。入ったとき、本物と偽物が初めて識別可能になるだろう。エネルギーとフォースの違いも分かるようになるだろう。霊と魂と物質の違いもそれぞれ分かるようになるだろう。かくして、真の意味での調和を理解するのである。このとき、超人は小さな自己の幸福に一切興味を持たないし、小さな自己の希望など知りもしないし、我そのものが完全な平和であることを見い出し、I AMを尊ぶ。言葉に言い表しようのない強烈な覚醒であり、天地がひっくり返る。地上のものは天へと押し上げられ、天上なるものは地上へと引き降ろされる。これが真の錬金術である。
この錬金術を知らず、物質の金を一円でも多く稼ぐことに一生を捧げている馬鹿者の、何と多いことか。挙句の果てには、霊的なものを商売にしている者さえいる。彼らは、真の幸福を知らないのである。太陽が万物を養っているように、無償で分け与え、分かち合い、共に暖め合うということの喜びを知らないのである。それは個人に生きているからである。よって個人に騙されていることに早く気づかねばならない。でなければ、次の生涯でも別の個人に騙されるだろう。我々は特定の誰かではない。このことを理解するまでは――ジュワル・クールが第三イニシエーションを受けるまで人は白か黒か分からないと言ったように――有害であるゆえ、つまり完全な無害でもなければ善でもないため、これこそ一生懸命に瞑想という内なる師を通して学びゆくよりほかにない。なぜなら、もはや他の道つまり人間的な道が堂々巡りであることを我々は経験済みであり、この領域にはいかなる解決も解放もないことを知っているからである。
超人に到達した者は、非超人的なものを経験し乗り越えてきたということである。非常に厳しい道を孤独に歩んできた者である。とはいえ、そのような孤独感は第二イニシエーション前になくなるだろう。なぜなら個人ではなく魂を知るからである。したがって、道は極端に楽勝になる。なぜなら、歩んでいる者がもはや個人ではなくなるからである。魂を知るということは、個人性を消失するということである。だから、「私は魂に到達した」と自慢する者がいなくなった状態である。道を辿る前に道そのものにならなければならない。このオカルトの格言は真に熟考に値する。そして、それが真実であるならば、我々の不幸は、我々が真我を知らないからである。修行の末に神に到達するのではない。我、神である。
神が存在しないならば私が神である。
ドストエフスキー
この世つまり形態の世界に神は存在していない。外の世界に神は存在していない。誰もが神の不在を嘆いている。そこで我々は思い切って、あるいは小声で、あるいはためらいがちに言う。私が神であると。それは、以前に考えられていたような意味での神ではない。なぜなら、神は概念ではないから。神を知るためには、概念や想念といった具体化するマインドが静かになっていなくてはならない。それは瞑想で達成される。そして達成されるまでは、瞑想が希望である。私がかつてはそうだったのだから。言い換えると、瞑想だけが好きだった。本物だけが好きだった。こう考えると、霊的には真面目だったのである。なぜ真面目だったのか。それは、あらゆる問題が瞑想によって解決されてきたからである。あらゆる苦痛は至福で塗り替えられ、あらゆる困難は喜びに置き換えられ、あらゆる敵意は愛によって打ち消されてきた。こうなると、個人はひれ伏す思いである。よって、個人における救世主は、内なるキリストである魂である。この意味で、我々はキリスト教徒になる必要があり、この世のキリスト教徒に真のキリストを味わわせる必要がある。すると皆が救われてしまうではないか。皆にキリストが再臨してしまうではないか。罪と罰の概念もなくなってしまうではないか。戦争がなくなり平和が実現してしまうではないか。優劣も高低もなくなり、貧富や格差もなくなり、不平等が平等に置き換えられてしまうではないか。こうなると困る人が出てくる。それはとりもなおさず人間である。自分が輝きたいと思っている個我たちである。だから、全員が引き上げられぬかぎり、悪が根絶されることはなく、神の目的が達成されることもないのである。誰一人として、置いていくことは不可能なのである。