心理学は何をしてきたのか
フロイトの精神分析、ユングの元型論、そして現代の認知行動療法(CBT)など、心理学は長きにわたって心の働きを解明しようと試みてきた。心理の解明によって、心理が作り出した問題を解決しようとしたのである。
フロイトは心を「意識・前意識・無意識」に分け、特に無意識が行動や感情の根底にあるとした。ユングはさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」を区別し、集合的無意識には、すべての人類が共通して持つ心理的なパターンである「元型(Archetype)」が含まれると考えた。元型は神話や夢、象徴の形をとり、文化や時代を超えて繰り返し現れると彼は言う。
現在の心理学――CBTのような現代心理療法は、これらの深層心理学とは異なり、意識的な思考のパターンや行動の変容を重視し、また「自動思考」や「スキーマ(認知の枠組み)」といった無意識的な要素にも着目している。しかしながら、これらでは本質的な解決には至らないことを、真の心理学者――そのような者はしばしば瞑想者である――は気づいている。本論ではその理由を明らかにし、新たな超越の仮定を真に実践的なものとして提議したい。
心理は真理の殺戮者
これらのアプローチはすべて心理(Psyche)の枠内でしか作動せず、心理そのものの超越という視点を欠いている。それゆえ、いかに無意識を解明し、思考や行動を調整しようとも、それは「条件づけられた心意識」の再構築にすぎず、心理の探求ではあっても、真理の探求には至らない。心理を探求する者は、心理を超えたものが心理を制するという視点に心を開いてほしい。そのような視点を持たない限り、心理学の研究は本質的な進化を遂げることはできず、実際に人を癒やす道を示すことは永遠に望めないのである。
心理の枠組みを超えるとはどういうことか。それを示してきたのが瞑想者である。彼らは心理そのものを超越することで、実際に自由を知っており、条件づけるものと条件づけられるものという心理的な力学に精通しており、それゆえ心理が問題とみなすものに対して、いかにして真の解決が得られるのかを完全に知っている。しかしながら、聞く耳が不足しているのである。その理由は単純である。人間がまだ心理に条件づけられることを心理的に望んでおり、つまり「無意識的」に望んでおり、自身を条件づける力の性質を知ることよりも、力に条件づけられることがまだ楽しみになっており、よって心の騒がしさをむしろ維持しようとしているからである。
心理学者に当てはめれば、心理の動きを分析し、修正することに満足し完結してしまう。今のところ心理学は、科学的手法に基づき、観察可能なデータの範囲内でしか探求しない。無意識の構造を解明し、行動を調整することには長けているように見えるかもしれないが、魂の知覚や超心理的なエネルギーには踏み込めない。心理学が超心理へと進化しない限り、それは本質的に「条件づけられた心の整理学」にとどまり続けるのである。そのため、心理学は「心理的な研究」という心理的な娯楽の域を超えず、心理に長く停滞しているのである。ゆえに、「心理はまことに真理の殺戮者」である。
心理とは何か
心理学が扱う「心(Mind)」とは、実際には過去の記憶、未来の予測、思考のパターンによって条件づけられた産物にすぎない。この心は自己組織化され、自律的に作動しながら、自らを「私」だと錯覚する。つまり、思考そのものが「思考者」という主体を想像し、肉体や五感をその証左として、自分が思考していると考え始めるのである。しかし、これは単なる心の自作自演にすぎない。
どれほど精緻に心が自身を構築しようとも、それは心理の領域内にとどまる。心理学が探求しているマインドとは、秘教徒の概念で言うところの具体マインドでしかなく、つまり、心理学が扱うのは心理であって、真理ではない。この構造が維持される限り、心理学がどれほど発展しようとも、それは心の動きを整理し、機能を最適化するにとどまり、問題の解決はおろか、自己の根本的な変容には至らず、人の心を真に治癒することも不可能である。
超心理学
では、人間はこの条件づけられた心理の枠組みから抜け出すことができるのだろうか。「抜け出した後の存在」が、それまでの者の面倒を見、問題を解決し、心理を超心理へと融合させうるという話——これこそが、心理学の真の課題である「汝自身を知れ」という命題の本質である。「汝自身」とは、心理的な構造や条件づけられた自己ではなく、魂(真の自己)である。心理学が扱うのはマインドの動きにすぎず、それを超えた知覚の領域こそが、超心理学の探究対象である。心理を超えることにこそ意味と意義があるというこの仮定を、研究者たちは受け入れられるだろうか。
心理の枠を超えることはどのようにして可能となるのか
答えは単純である。瞑想を通じて心理の働きそのものが静まり、超心理、すなわち魂との接触と融合が起こる。 その結果、超心理が心理のあらゆる問題を解決するのである。どのようにしてか。まず心理的な問題とは、心理が自己を主体として誤認することから生じる。思考や心は主体ではなく、真の主観が魂であることを融合により理解することで、心理の問題は解消される。超心理とは、思考の背後にある純粋な知覚(魂)の顕現であり、それによって心理の不調和が自然に鎮まるのである。
具体的には、心理を超えたエネルギーが頭部のチャクラから流入し、その超心理的な力学が心理の騒がしさを鎮め、「条件づけの枠組み」から解き放つ。魂の力は、意識の背後にある純粋な意志(宗教の領域では「神の意志」とも呼ばれる)と融合しており、その超心理的な力が、古い心理的な力を押し黙らせ、サット-チット-アーナンダ(究極の実在・純粋な意識・至福)で知られる真理を悟らせるのである。
檻の中の最適化か、檻の外の自由か
心理が絶えず動き続ける限り、魂という超心理は知覚されない。フロイトの無意識やユングの集合的無意識をいくら分析しても、それは心理の領域での営みにすぎず、檻の中で壁の模様を変える作業のようなものである。心理学は、檻の装飾を変えることで人間の自由を拡張しようとしているが、檻から自由になるというアイディアをすっかり世論によって奪われているのである。
心理学が「檻の中での最適化」を追求するならば、真の探求者は「檻の外に出ること」を求める。条件づけられた心理の枠を超え、条件づけるものも、条件づけられる者も存在しない、その高みへと至ることこそが、知的探究の究極的な目的であり、それこそが「意識の完全なる自由」の実現でなければならない。
心理学は「心の最適化」にとどまっている。しかし瞑想者は「心理の超越」を求める。心理を超えた意識の高みへと至ることこそ、人間の意識進化の必然であり、真理への道は、心理の枠組みを超え、魂の知覚によってのみ開かれるのである。なぜなら、心理を超えたとき、その後を導くのは彼であり、その彼が次の「私」になるからである。