超然

すべては自作自演である。精神は欲望と恐怖を利用して、自我や自我の世界を延々と紡ぎ出す。精神の産物である人間は、欲望か恐怖をそのまま世界に投影し、自分勝手な物語にそのまま没頭し続けている。そして、わたしは弟子だとか、惨めだとか、道を歩いているとか、各々が自作の話を次から次に、欲望と恐怖を燃料に炙り出している。

そこに、賢さが到来して、それらが自分ではないという叡智が訪れる。全てと関係がないという祝福された感覚が訪れる。そのある種の苦しみを調べてみると、精神の背後に静かなる者がおり、その見ている者を超えて普遍的な存在が充満しており、言ってみればそれが私であるということになる。少なくともそれは「超然」である。それは完全なる識別である。つまり知恵である。人間は次から次に同一化して物語を続けるが、それは識別力そのものであり、何にも騙されない。ゆえに物語が続かないというだけであろう。

物語が必要な人だけが役者として、また物語を創造し演出する者として、何らかの物語に浸っており、その精神の領域の中で苦痛と満足を繰り返している。そして各々が学習した観念を背景に物語が続いていく。その愚かしさから降りた者が、ときに聖人などと呼ばれ、不思議がられ、感傷か感嘆の対象となっている。そのようにしてある者には物語と自作自演が続き、ある者には物語がそれなしには存在できない実在なるものへの帰還が訪れる。それとても、帰還する”者”にはどうでもいいことであり、一貫して超然である。この超然は何とも関わらないことでその超然を維持している。人間は”何とも関わる”ことでひたすら同一化している。超然は超然にのみ超然として在る。このような言語は何も意味しないが、一時的な意味は存在するだろう。したがって世界は連関である。非連関は非世界である。それは「絶対」であり、いかなる二元とも連関していない。

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