逃避してもいい

肉体的であれ精神的であれ、体調が悪く辛いとき、なお平和と至福に包まれていることは可能である。これはしばしば理解されない話である。なぜなら、外側の人間は元気がなく、いつもとは明らかに違い、精彩を欠いているのが見て取れるからである。つまり、人は目に見えるものしか判断材料にしない。きつそうな姿、暗い表情、輝きのない目、これは世界という全体の、その瞬間における部分であり、関係性のなかの構成要素であり、真の私とは無関係である。個人は分離しているため地獄にいるが、真実の自己つまり命はそれ自体の性質が天国である。いかなる三界の事象や人物も、命というとこしえの輝きに対してはアンタッチャブルである。

世界や現象はカルマに統御されている。その法則が見た目上は分離している関係性の世界をひとつにまとめ上げ、行為と連関、原因と結果という仕組みの中で、一にして全なるものを引き上げようとしている。しかし、ひとたび個人が魂となり、内なる命を見出すことに成功するならば、もはや外側の人間とは関係がなくなる。出来事や行為の責任者ではなくなる。名前を持つ特定の人が自分ではなくなる。外的個人は、ただ運命やカルマといった、コントロールのできない要素に統御されている。なぜなら、世界や顕現は結果だからである。命だけが原因である。命が本当のわれわれであり、不調を感じたり演じたりしている肉体や心はわれわれではない。

これが分かるようになる必要がある。外の人間は好調と不調を往復するだけである。この無能者は、出来事に応じて自己判断の犠牲に自らなり、ふさわしい感情や思いにその都度支配される。昔、私は次のことに気がついた。世界や出来事が問題なのではなく、そこから派生する自己のフォースに対応できないことが問題なのであると。つまり、フォースさえ統御していれば問題がなくなることを。これがいかに自我へ奇跡のような贈り物となるかを理解してもらいたい。

簡単な例。会社へ行きたくないとする。上司や同僚は、それを逃避ないしは甘えと見なし、批判する。本人は、怖がって自己正当化するか、惨めな自分、できない自分を後ろめたく感じ、責める。霊的には、これは問題ない。見た目上の逃避はどうでもいい。お願いすることは一点だけである。逃げたい自分をまず許すこと。なぜなら、はねのけていたら見れないから。それは事実、問題がないため、許されていい。上司が有能ならば、会社を休むことを責める雰囲気をむしろ許さないだろう。社会が健全ならば、理解と思いやりを重視はしても、逃げる人に追い打ちをかけるような真似はしない。だから休んだこと、逃げたことについては気にすることはない。起きること自体は良くも悪くもない。個人だけが判断に巻き込まれる。

重要なことは、逃げるという行為の背後で自分を動かしている感情、動機、感覚を見ないことが逃避であると気づくことである。行為は問題ない。行為する肉体は、アストラル体とメンタル体のフォースに従って動く自動装置である。ゆえに、自己発生する感情や思いというフォースを見ないこと、無意識に嫌がってそっぽを向いていること、その持続が無知なのであり、真実からの逃避なのである。これが、道具に使われている状態である。命が、アストラル体とメンタル体に使われているのである。主従に無知であるため、本来であれば活用すべき諸体に執着し、その執着するものに使われる側に回っている。これを知り、衝き動かす力、諸体のフォースを眉間からハートで見るならどうだろうか。眉間からハートとは、魂による自動的な向きを翻訳したものであり、自我はその動きと向き、つまり魂のエネルギーの流れを眉間から方向づけるだけである。見るとき、これが起こっているだけである。こうして、フォースはエネルギーに捉えられ、消え去る。

これが、霊的な授業のはじめの一歩である。小宇宙の物質から瞑想者は始めるのである。つまり諸体である。自分という感覚を構成させるものである。どの等級の質料と同一化しているかで、意識状態が決定される。だから低位の振動をなるだけ許さず、高い波動に少しずつ瞑想で慣れさせ、高い等級の物質を諸体に組み入れはじめるならば、意識というものは変わる。その結果、なにが本当の自分であり、なにが真我と関係がないか、静かに理解するようになる。だから、外の人間の行為で悩まないように。われわれは行為者ではない。彼や彼女は行為者という責任と無知に苦しんでいる最中だが、われわれはそのような結果の世界に生きる必要はない。それらの背後には一つの命があるだけであると知り、命の慈悲、命の愛、命の知恵、命の美しさと喜びに感謝を味わい、個人という放蕩から父のもとへ帰るべきである。抱きしめてくれるだろう。

目次