進化段階について落胆したり、あまり考えたりすべきではない。人間は現在の進化段階を突き止めることはできても、潜在的な進化段階を突き止めることはできないからである。進化段階について気にすること自体が情緒的であることは別にしても、現在の到達基準で制限をかけ、自己憐憫に屈服することは単に自我を強めるだけである。
いま、目の前の課題に取り組むことで解消され、それによって得られる報酬こそが、自身にとって現状は最高の報酬であるということはしばしば忘れられている。例えば、苦痛というアストラル性質に大変な思いで取り組むとき、その統御方法の理解という報酬が訪れるならば、二度と苦痛を感じることはないという報酬は、遠くまだ無関係な達成よりも遥かに価値のあるものではなかろうか。したがって、他人の高度な達成よりも、自分の目の前の小さな達成の方が高価値であるかもしれないのである。この事実を理解することができるならば、目前にある一つの障害の除去が大いなる自信となり、次々に達成不可能と思えた段階を乗り越えゆく力が身につくものである。そのとき、自らの進歩に制限をかけ意識の拡大を閉ざしてきたのは、他ならぬ自分自身であったことに我々は気づくのである。
このような意味で、進化段階というものは無視されるべきである。それは活用され、もしくは誤った認識や過信から守護してくれる作用はあっても、自らの前進を阻む概念ではない。落胆や失望、無気力といった情緒性質が、目の前の機会という価値に対する正当な知的認識に置き換えられたとき、どれだけの前進が短期間で可能であるかを知っている弟子は少ない。彼らはなぜ知っているのであろうか。それはおそらく悲惨なほど惨めな思いの中、強靭な意志力で立ち上がることだけに固執し、たとえ小さくとも眼前の目標へ決して諦めない態度で取り組んできたからであろう。彼らは忍耐力を証明した。どんなことがあっても屈しない精神を自らに示してきたのである。それによって、他人は主張するが自分にはまだ見えぬ遥か彼方の達成よりも、見えている目の前の課題の方がいかに貴重な機会であるかという高度な理解を発達させてきたのである。言い換えれば、急速な前進の秘訣を彼らは身につけたのである。このようにして、弟子は隣の芝生より目の前の芝生に喜びをもって一意専心できる進化段階に到達するのである。