進歩を妨げる要因は、進歩という概念である。なぜなら、進歩は未来の話だからである。時間の感覚は、脳の反応の結果であり、解釈である。最も一瞬にて進歩を可能にするのは、目の前の現在であることに、我々は気づけずにいる。霊的な道や、時間をかけて進歩しゆくといった想念を堅持するならば、現在とは疎遠である。今、目の前に統御されていないフォースが野放しにされている。このフォースが、我々の意識や気分の原因になっている。宝くじを定期的に買う者がおり、彼は買い集めた大量の宝くじを目の前に置いているが、大きく当たった試しがないため、次の宝くじのことや、宝くじが当たったらどうするかといったことを考えている。しかし目の前の宝くじの束の中に当選券が入っている。進歩を考える者も、同じ過ちをおかしている。眼前に宝はある。頭ではなく、眉間で考えるべきである。想念ではなく、アジュナ・センターから対象を捉えるのである。捉えた瞬間に安らかさへ入ることで、理解したことを知るだろう。
我々が進歩するのではなく、すでに進歩した存在を意識の目の前に見て引き込むのである。全ては眉間で行われる。これを、”しよう”とするなら失敗するだろう。自我は何の力もない。君子危うきに近寄らずと言われるように、彼の想念には関わらないことである。騙されるだけだろう。我々が転生してきている原因、課題であるものが眉間を通して見つかる。このフォースが、非進歩である。これは物質質料であり、上ではなく下、退化へと盲目に向かっている。このような質料で我々の諸体は組み立てられている。これら形態の内に眠る生命を引き上げることが目的である。象徴的に、我々が肉の囚人になることで、我々はより小さな肉の囚人の解放に関わっている。これは惑星規模の話である。
我々がこのようなフォースを統御するとき、気づくだろう。見ている対象と自身が同じであることに。見ているのに、それは私自身である。働きかけているのに、働きかけられているのは私である。この同時感覚は、時間も距離もないことを教えてくれる。何も分離してはいない。事実は個別を知らない。すべては私である。
例えば、我々は諸体を統御すると言う。あるいはフォースを統御するという。ならばなぜ、統御した瞬間に私の意識が変容してしまうのか。すべて繋がっているのである。連結しており、離れてなどいない。これを押し広げて考えるならば、世界もまた、私の中に存在する非実在である。普通の意識は、世界の中に自分がいるという想念に怠けている。ならばなぜ、世界を構成する要素つまり原因を我々は統御できるのか。これは、我々が世界より大きな存在だということを思い出させてくれる。
人類は、遊びや娯楽が楽しいと誤解している。これは悪いことではないが、アストラル的な楽しさであり、ミイラ取りがミイラになっている。しかし、フォースの探求、ひいては真理の探求こそが真に目的へと導く楽しいものである。なぜなら、次々と知るからである。哲学者は知識が悦ばしいと言うが、秘教徒やオカルティストは、知識と関わらず、形態の背後の本質に関与し、意志と救済に悦んでいる。
進歩が、もし遠い未来の話であるならば、それこそ「神は死んだ」とも言えよう。しかし目の前に進歩がある。未来にはない。何のために形態に入っているのか。少なくとも、我々の意識は形態内にあると誰もが感じている。ならば形態とは何なのか。形態に住まう私とは何なのか。現実とは何なのか。なぜ頭が対象として分離して捉えるものを変化させたとき、私の意識が変化せねばならないのか。なぜ見る対象が、事の真相をこうも開けっ広げに教えてくれるのか。これが生きた学問ではあるまいか。
学問は現実を扱わねばならない。それは過去でも未来でもなく現在に存在している。時間感覚を乗り越えることで、遅々たる進歩、遅々たる歩みを解除すべきである。遠い未来の進歩と思っていたことが、この瞬間に起こるだろう。不思議なのは、ほとんどの教えが時間を前提にしていることである。このやり方で教えていては、それこそ時間がかかる。時間を教えることで、時間に言い訳の余地を生み出している。時間を譲らない人は、進歩した人の話と、自分の話を相容れないものと見なすことで、現実逃避している。進歩とは現在である。現在とはすでにして進歩である。理解すなわち即時の意識変容である。瞑想でこれを見出したとき、多くの同胞の進歩を促進できると確信した。進歩というより、錯覚の除去である。文章や意識の翻訳では限界があるが、誰かがきっかけとしてくれるだろう。そして、自分の進歩のために存在していないことを理解すると同時に愛に喜ぶだろう。つまり、一つの目的に我々は取り組んでいる。共に働いている。したがって、友の前進が私の前進であり、みなの前進である。この考え方は外へ向かっている。これは解放を生み出す豊かな精神である。