「日本の中で最も霊的調和が顕現している美しい町」という問いは、魂が故郷を求めるときに、時として外の世界に投影されるかたちで現れる。その思いは美しく、内なる調和を希求する響きでもあるが、やがて内へと還っていく。たとえ一時的に癒やしをもたらす場所や人に巡り合ったとしても、しばらくすれば、かつてと同じように周囲は堪えがたいものになり、良き人と思えた誰かも、美しく清らかに思えた佇まいも、やがてその影を見せるようになり、風景は静かに色を変えていく。あたかも、その景色があなたを拒むかのように、偽りの陰りが剥き出しになるのである。たとえば、深く傷ついた者が、新たな土地に再出発の希望を託しても、ほどなくしてまた同じような壁にぶつかることがある。それは失敗ではなく、魂が真に帰るべき場所を忘れぬための、優しい繰り返しである。
親愛なる兄弟よ、己の意識が変わるとき、外の世界もまた変わるのだ、という霊的な法則に誠実になろうではないか。喜ばしいことに、あなたの退路は断たれた。それは、魂があなたの真剣さを信じているという、確かな徴でもある。平均的な探求者にここまでのことは起きない。それはこの生涯に入る前からの魂の計画であり、逃れることはできないが、むしろそれによってのみ、真に己と向き合う機会が与えられている。あなたの心境は完全に理解できる。弟子というものは、この世での八方塞がりを実際に体験する。そうでなければ、私たちはこの世の仮初めの慰めのなかで足を止めてしまい、本来の約束を思い出すことはなかっただろう。
深淵を覗き込むとき、深淵に覗き返されるという話はあらゆる分野での事実であり、霊的には、あなたが魂を求めたとき、魂もまたあなたを見つけたのである。その出会いは静かに時を区切り、ひとつの光を灯すためだけに、あなたの内側を覆っていたすべての影が浮かび上がるような時期を開始させた。そして個人は、厳しすぎる魂の演出にしばしばこう言う。「そういうつもりではなかったのです」。あるいは、「そこまでのつもりではなかったのです」と。
個人は、決して己の破壊が現実に起こることを予期していなかった。自分つまり自我が否定されるような出来事が次々に起き、この世に居場所がなくなるといった事態を決して予期しなかった。霊的な「報酬」が訪れるには、自分はかなりその地点から程遠いという事実を突きつけられるとは思っていなかった。覚者と呼ばれる方々が約束する言葉を信じ、そこに癒やしと希望を見つけて、むしろ己で霊的に達成するという夢に向かっていたはずだったが、現実は容赦なく厳しいものであり、自分には霊的に希望がないのだという恐ろしいばかりの闇に暗然となる。だがそれは、あなたが最も深く魂に触れようとした、その証なのであり、「希望がない」と思うその瞬間こそ、古い自我が最後の力で抵抗している証でもある。
新しい魂の意識に到達する前は、消え去るべき古い自我の抵抗がまさに恐怖として現前するため、必然的に苦痛の性質を帯びるが、それが意味するのは、あなたが、あなた自身を静かに手放すという真剣さを、何ものにも代えずに差し出すという覚悟である。あなたがあなたで居続けるかぎり、魂はまだ静かに待つしかない。しかしながら、私は魂の同胞として言うが、その道を、私たちがかつて歩まなかったと思うだろうか。私たちもまた、あなたと同じ暗がりに立った。経験から言えることは、その苦悩はきわめて一時的であり、忍耐と諦念というものの、その希望に満ちた意義を理解することで、その時期は乗り越えられる。言い換えると、その価値を早く学び取れば、それだけ早くその時期は過ぎる。したがって、私がその時にしたことは、ただ諦めることだった。ただ静かに、耐えることだった。自分のことはどうでもいいと認めることだった。そのかわり、正しく生きることだけを願った。
この時期に魂が行う演出の一つに、孤独というものがある。しかし実際には、解放された存在たちはすでにあなたのことを知っており、可能な限り導こうとしている。しかし、その導きは決して目に見える形では現れず、あくまで自分で乗り越えるという霊的な真剣さを実証するまで、陰で支えられていることに気づくことはないだろう。そのため、その期間中は、まるで、全世界から見放されたかのような、一人だけ取り残されたかのような、完全な孤独を感じることがある。しかし後になって、あの沈黙のすべてが、見えない導きに満ちていたことを知る。誰もいないように見えたそのとき――実際には、すでに包まれていたのである。
やがて乗り越えたとき、魂の呼びかけに応える者にふさわしく、門が開かれるだろう。それは、今は信じられないかもしれないが、二度とそのような苦悩を味わう必要がない高所の意識に出入りをすることに対する覚者方からの許可であり、第二イニシエーションである。したがって第二段階のイニシエートにあなたがなったとき、個人的な苦悩というものは存在せず、あなたは魂として生きることが完全にではないが可能になり、そのとき、今のあなたが求めている「日本の中で最も霊的調和が顕現している美しい町」という場所に導かれるかもしれないし、あらゆる良いことが起き始めるかもしれないし、あなたの内側が美しい以上、実際に起きるであろうが、霊的パラドクスとして、そのときあなたはそれらに無関心である。なぜなら、それまでにあなたは諦念の意義を学び、相反する対をなすものの性質を学び終えているし、それゆえ、そのときのあなたは、ただ静かに、我が内に永遠なる天の御国を知っているからである。