金メダルを掲げて満面の笑みを浮かべる者。金をごっそり買い集めておのが安心や安泰にほくそ笑む者。金を稼ぐために生き、生きることすなわち肉体を養うことになっている者。金で欲求を満足させ、煩悩の命に従うことが生きがいになっている者。あらゆる人間が何かしら金を求めている。そして死ぬとき、栄華を極めたどのような傑物であれ、力なく弱々しい眼差しで、すべてがもろく儚かったこと、人生が夢でしかなかったという虚無の悟りにすら驚く力もなく、目をつむり、光を失い事切れる。
この世の金は、内在の金の象徴でしかない。金メダルが取れなくて苦しむ者や、金がなくて金に苦しめられる者など、金を求めたがゆえに却って不幸に苛まれ、「金を外に求むるなかれ、金はすでに我らが内にあり」、この教訓を学ぶためだけに苦しんでいる者が多すぎる。助けてやりたい。内在の金が今すぐにでも事実であることを証明してやりたい。金のために争い競争し合う世の中ではなく、すべての人間に、そして万物に内在している金が確かめられ、分かち合われ、その豊かさゆえに、誰も苦しまない世界が実現してほしい。
内なる金のありかを教えたくても、聞く者、信じる者、価値を認める者が少ない。ずっと外を見ている兄弟姉妹に、どれだけ内を見よと言っても通じない。だからこの世にはカルマがある。法則において間違ったことをすれば、相応の苦しみを体験させられ、そこから教訓を自ら学ばせるというのが神の教えるスタイルである。さんざん不幸や苦悩を経験し尽くし、むしろこの世に飽いた者、関心が失せた者、本物は別のところにあると考え始めざるをえない状況にまで追いやられた者、彼らだけが聞いてくれる。彼らだけが外に瞑り、内に目醒める。だから苦しむもの幸いなりである。
苦しみにあったことは私にとって幸いでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
詩篇 119:71
苦悩を引き起こす事象は、われわれを内在の金に、つまり唯一価値あるものへと導くための演出でしかない。金すなわち神は、原因と結果の法則を通じてこの世で人に学ばせ、自力で帰って来れるように、常に常に導いている。ただ未来を知ることができぬため、将来の不安にわれわれは駆られるが、金というものは現在にしか見つからないものである。あらゆる求めるもの、あらゆる執着するもの、これらが低位我にとっては金かもしれないが、それが偽の金であることを知ったとき、まるきり価値がないのだという事実に驚くだろう。真に価値のある金とは、真我のことである。そして苦しみを通して神はおきてを教え、われわれをおきてで導き、真我へ至らせるのだから、注目すべきは現在の苦しみである。現在の不快感である。現在の葛藤である。これらは過去や未来といった幻影に縛られているときにのみ発生する虚像であり、それを見たときそれは消え去るという、驚くべきまぼろしである。
肉体の病気による苦しみであれ、内在の金つまり至高の光輝くエネルギーをエーテル体のチャクラを通して焦点化させたとき、根深い固定化されたフォース(これが病気である)を打ち砕くことすら可能になるだろう。それがどれほど可能であるかは、われわれが宿っている伝導体がどれだけ純粋であるかに依存する。この純粋とは、われわれの形態の材料となっている質料がどれだけ高い等級のものであるかという意味である。見た目の上ではどの人間も人間だが、意識においてはどの人間にも差異がある。なぜなら、形態と霊の結びつきが意識を決定するからである。言い換えれば、霊つまり生命である我々が、どの物質の質料と自らを同一化するかで意識は変わるのである。つまり、生命が何に生きているかの違いである。通常、人はアストラル体に生命エネルギーを焦点化させている。だから欲求や恐怖、苦悩や快楽といった、相反する対をなすものの間のあらゆる感覚に生きているのである。瞑想でわれわれが魂に、つまりコーザル体に焦点化したとき、低位我のどの感覚も全く感じられなくなる。そのときわれわれは金である。すべてが光輝くいのちであり、すべてが黄金に輝く美しき喜びであり、すべてがそして私であり、また私はすべてであり、なにもかもが完全である様におのが神性を知るのである。このとき、神性意識から目覚めたとしても、病人だった者は癒えている。苦しんでいた者は喜び愛あふれている。これが宝だったのかと、これが求めるべき金であったのかと、われ自らにほほえむことを知り、これが真の笑顔であることを悟る。
午前中、一人の病人を治療した。彼は私に最初はこう言った。苦しくてもう耐えられないと。寝たきりで、しかもその状態がもう地獄かというほど苦しみであった。それは肉体的な病いに由来するものである。彼に対し、私は彼との間の通路となり、内なる黄金から放たれる光のエネルギーを焦点化させた。その瞬間、癒えた。私が治したのではなく、私という伝導体を通った神が癒やしたのである。彼は光に包まれたと言った。目をつむっていたが、はっきりその光を見ていたと語った。それは白く輝く大きな光が中心に向かって小さくなり、また再び大きな丸い光が中心へと小さな点になるまで向かい、何度も何度もそれが繰り返されるのを見ていたと語った。そのなかで、おのれがもはや病人ではなく、癒やされた者、神の美しさに惚れ込んでいる者、ほほえみを顔にたたえる者、真に価値あるものを実際に見ている者、黄金である者であることを知ったのだと語った。信じらないものも、起きたことは信じざるをえない。つまり、われわれは錯覚を現実と思っているが、それをとっくに超越している力を備え持っているのである。その力こそが金の象徴であり、その力は唯一なる生命の慈悲と愛のしもべなのである。