それはただ美しい。何もかもが美しいならば、法則もまた美しいのである。それは完全ゆえに美しい。おのれを不完全と見なす者は、瞑想によってここに辿り着くだろう。それは在り、それしかないが、瞑想すれば運ばれるだろう。自我はここに来れない。人間として辿り着こうと抵抗してはならない。この宮は在るが、門を叩くとき、「私は何某だが」と言っても反応はない。手ぶらの者、所有せぬ者、裸の者だけが迎え入れられる。ここは名を持たぬ者、限定せぬ者、白痴や赤子のような「染まってない者ら」が、ただ無邪気に喜ぶ場所である。門は開きっぱなしである。入ってくる者がいない。そんな条件は飲めないと言うことで三界に転生している。彼らは自分を肉体だと主張し、精神や情緒であると主張し、人間として聖地に踏み入らんと試みる者である。神は、自分を人間であると偽る者にはくぐれぬ門を作られた。神は人の子らに教えた。「わたしでありなさい」と。あなた方は人間ではなく、肉ではなく、命であるわたしであると。そのようにしてしかここへは入れない。「われ肉体にあらず、われ命なり」このように発するハートしか入れぬ開きっぱなしの門を作られた。難しく考えない者は幸いである。自我は複雑に考えることで「自分」の物語を続けようとする。しかし複雑を単純に変えるのが瞑想である。あれこれ言わず、あれこれ考えず、ただ静かに目を瞑る者は幸いである。何も求めず、ただ静かに「われ在り、ゆえにわれ完全」と知る者は幸いである。物足りない者、もっと別の何かを欲している者は「ただ在ること」に耐えられず探しに出かけるだろう。どこへ行っても何もない。外は不毛だし悲しい。外は寒くて辛い。外の目からすれば質素に見えるかもしれないが、内なる宮はそれゆえに美しい。何も持たず、何にも限定されぬゆえ、美しいのである。

「瞑想しても効果がない」と人は言う。彼は「効果」を求め続けるだろう。彼として手に入れるものが存在しないことを知るまで、自我で瞑想するだろう。見られるべきはその欲深い自分である。われわれが何も欲しがらなくなったとき、欲する必要がない意味をわが内に知ったとき、手ぶらの準備が出来るだろう。われわれがただ白痴のような幼な子で在るとき、知恵に満たされはじめるだろう。欲求を携えてどうしてこの宮が見つかるだろうか。名を持ち、知識を持ち、記憶を持ち、これらの奴隷でありながら、どうして「われ完全なり」と言えるであろうか。瞑想では全部捨ててしまうことである。神が作られた真実を裁く門に人間の小細工は通じない。これを聞くと人間は絶望してみせる。特別な者でない自分の物語を編みはじめる。拒絶された者として遠目に敗北感を覚える悲劇がはじまる。このような感情も所有してはならない。感情に拘束されながら至福の門はくぐれない。自我は無にならねばならない。何にも染まってはならない。何にも束縛されてはならない。すべてを本当に諦めねばならない。

これを為すのが魂である。人間では誰もできない難事に取り組まれているのが魂である。それを知らずに不平不満を言うわれわれのために働き続けているのが魂である。この今も、ゆっくり着実に完璧な仕事をされており、人間が瞑想にて共振しはじめるのを待っておられる。この偉大な方を感じられずとも、彼の奉仕を信じ、小さく謙虚に瞑想でおのれを「推敲」しつづける者は幸いである。乱れたものを省き、劣った表現をより良いものへと魂のリズムにしたがい導くならば、やがて波長の一致にて魂と出会うだろう。やがて彼が橋渡しをしてくれる白く輝く日輪であることを見るであろう。やがてわが身のうちに生き生きと感じ彼の輝けるハートに溶け合うだろう。この愛の門をくぐらんとする者は、汝自身の汚れを落とさねばならない。瞑想にて日夜落とさねばならない。日常にて愛と思いやりと善に生きることで落とさねばならない。人間が信用してよいのは魂である。汝を真我へ導く瞑想である。彼は無口だが知恵を授ける。彼は人格を持たないが愛を分かち合う。肉体、アストラル体、メンタル体を、魂によって、瞑想を通して浄めてもらうことである。本当に欲からではなく、誠実につまり彼ゆえに瞑想へ浴するならば、自我は何もすることはない。自我は自らが彼にて変性されるのを見る。喜びながら、感涙しながら、破壊の美を見るのであるが、やがて門すらも壊されることを知る。門は魂である。彼は仕事を終えて死ぬのである。

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