陰陽を超えて

現象の世界では何にせよ陰と陽がある。形態の陰陽の背後のエネルギーの世界でも、エネルギーとフォースがある。あるいは、霊性と物質性がある。これら真逆の働きを持つものを通して我々は経験を積むが、最終的に理解すべきことは、陰陽がイリュージョンだということである。マインドが生じたあと、そのような二元の世界が誕生する。瞑想はマインド以前に遡るものであり、その一元なる本質においては、陰陽はその役割を終えて一致しており、一致しているからには限定はなく、際限のないものであり、その平和は無限である。

「今日は天気がいいからどこか行こうか」と誰かが言っていた。「行く」とは何なのか。固定された別の映像地点に肉体を動かす映像のことを言っているのだろうが、世界のいかなる場所も、意識の後に生じた話であり、それらはすべて一つの意識に包含されている。自分を肉体とみなす者だけが、世界の中に自分がいると思い込み自らを限定させている。そうではなく、私の中に世界が収まることを知るならば、世界は勝手に流れているただの映像である。だから実際は場所というものはない。行くということもない。この世でどの場所に肉体を移動させても、ついて来るのは「私」である。そこがどこであれ、それは常に「私」のなかでの話である。そして「私」なしには世界は知覚さえできない。

ジュワル・クールは、「宇宙が拡大しているのではなく、意識が拡大しているのである」と言っている。以上の文章の意味が分かる者にとっては笑ってしまうばかりに自明のことである。この世が現実なのか、それともこの世が消えてもなくならないものが現実なのか。宇宙もまた意識の後であり、意識の中に含まれている。それがどれだけこの世的な意味で広大であろうとも。広大とは距離や時間や空間と関係しているが、「私」はそれらを超越している。この真我なる本質だけが永遠のものであり、唯一見出されねばならぬもの、唯一真実であり得るものである。それはいかなる普遍も広大も宇宙も包含する根源の一なる無限意識である。

これを知らず、陰陽や二元に生きるならば、その背後には常に恐怖がある。常に苦痛がある。陰陽を解消する道はただ中道を通した融合のみである。実際は最初から融合しているが、人間はマインドを介して知覚されるものを解釈しているため、その世界の根本原理は陰と陽であり、この世のあらゆる陰陽が象徴しているのは、物質と霊である。

「統御」という概念は二元に属している。実際に統御されるべきものが統御されたとき、二元が生じる前の一元についに安らぐであろう。一元を知ったあと、二元の世界に用のある分離した個人はもはや存在していない。

「浄化」という概念がある。意味が分かって言っているのか、分からず抽象的な概念として、つまり具体的には理解せずに言っているのか。「高位の意識に入るためには自己浄化が必要だ」などと言うとき、浄化とは形態の浄化のことである。簡単に言ってしまうと、形態の浄化とは、形態を形態たらしめている質料の浄化であり、質料の浄化とは、質料の波動を高めること、速めること、率を上げることによって成し遂げられる。それを行うのは、物質の質料に働きかける霊つまり生命の純粋エネルギーである。意識段階は、このようにして、霊がどの種類の物質つまり物質の質料と関係を持っているかに依存している。したがって意識は常に意識以前のものを前提としており、その超越的かつ絶対的な本質を理解するためには、意識は意識自体に集中し、そこからすべてを脱ぎ捨てゆかねばならない。そこで神の業火に焼かれるのは錯覚であって、私自身ではない。

今日も、小学や中学といった子供の肉体をまとった兄弟姉妹たちが学校へ通っているが、それを否定はしないものの、真の学校は自身の内側にしかないことを教えないのならば、あるいは真の学校から遠ざける作用をもたらすものを強化する取り組みを主眼に置いているのならば、それは本質的には害悪である。秘められた教えを開示する内なる秘教学校を万人が瞑想で見出す時代は映像で言えばかなり未来の話であるが、それほどまで未来ではない。重要なのは、いま人類において相対的に先の意識を歩んでいる者たちが、この我という秘教学校にして秘教の教師すなわち内なるキリストを見出さねばならない。この魂なるイニシエートが、あるいは覚者が、この世のからくりや、錯覚の原理といったものについて、実践的に教えてくれるだろう。この教師は私だが、融合するまではマインドから二元で見られ、別の高位我として認識されるだろうが、その観点からすれば、このお方だけが意識内の世界で唯一信用できるお方である。

何をさきほど書こうとしていたかを思い出した。浄化について語る者がいた。はっきり言うが、あなたはなぜ一日に何食も食べるのですか。私から見れば、あなたは食べすぎている。一日二食とあなたは答えたが、その一回に食べる量が多すぎる。回数を減らせと言っているのではなく、一日に肉体に入れる食物を少量にせよと言っているのである。少なくとも、夕食つまり就寝までにあと数時間といった時間帯に食べないでもらいたい。瞑想に差し障ることが分からないだろうか。意識に支障が出て、本来なら数年で進歩できるものも、それでは数生涯かかってしまうではないか。よく聞いてもらいたい。食べれば、消化でエネルギーをかなり使う。現象体は有限であり、エネルギーは浪費に気をつけなければならず、あなたの場合はあまり食べないことによって、もっとエネルギーを有効活用すべきである。今のままでは、有効活用どころか、それが癖になっているゆえ、肉体をただ害し、必然的に意識も害することになっている。私の言っていることはあなたの体験に照らし合わせてみて事実ですか。事実ならばもっと真剣に考えられますか。

好きなものを好きなだけ食べてどの口が浄化などと言うであろうか。あるいは、好きなことを好きなだけ言って、どの口が浄化などと言うであろうか。好きなことを好きなだけ考えて、どの頭が浄化などの概念を扱うのであろうか。真剣さが足りないと言わざるを得ない。しかし、真剣さが訪れるまでは時間がかかるゆえ、私は決して非難する意図はない。考えるきっかけになる程度に衝撃を加える必要があるだけである。

いちどきに様々なことを思い出したゆえ一貫性に乏しい記事になったが、ボーっとしている人は、もう少し考えてもらいたい。しかし考えるとは、頭で考えることではない。まだ頭つまり具体マインドしか使えない時期は仕方がないが、瞑想を何年もやっているような者は、「考えないことで考える」という技術を身につけなければ沈黙の主と会話することなど不可能である。内なる秘教学校の教師は音声や対話を使用しない。彼は沈黙によって教える。ラマナが沈黙の教えといったのはこのお方の教えである。考えないことで知る、考えないことで分かる、考えないことで一体化する、考えないことでかつて考えられたすべてのものから自由になる。こういったことを学ばねばならない。これが頭部からの至福の道である。肉体意識で言えば、頭部内にその至福の領域はあるが、実際はそれは事実ではない。そう考えられる、そう想像されているだけで、「頭部内」だとか、「頭部内のセンター」だとか、いかなる分離概念もしくは分離知覚も、唯一なる私に包含されることを知り、その「唯一なる私」を概念や頭で考えず、その誰もが理解している私そのものであることを理解せねばならない。すべては私の中に包含された一元のなかの想像上の多元である。実際に我々が注目し集中すべきは一の方である。それは内側である。意識は、意識そのものに集中されねばならない。

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