人は肉体を自分と思って生きている。ゆえに、肉体の栄養を気にしている。弟子は魂が自分だと思って生きている。ゆえに魂の栄養を気にしている。
魂は、メンタル界の第三亜界に存在する。霊的な道を人が歩みはじめるとき、彼の意識は第四亜界のレベルにある。彼は第三亜界の意識に到達するための栄養を必要としている。そのため瞑想する。瞑想が終われば正しい生活を送ろうとする。こうして人間の三重の諸体に第三亜界の物質が一定割合くみこまれたとき、彼は魂を認識できるようになる。こうして弟子の次の目標は、第二亜界の物質のくみこみと、それ未満の物質の除去になる。第二亜界の物質が一定割合くみこまれたとき、弟子は合一して魂になる。そして目標は第一亜界つまり原子亜界の物質の征服になる。こういうことが霊的な道における栄養学である。
食事療法でも、数年すれば肉体の細胞は一新される。瞑想療法も同じである。高位の波動を流入させ、そのリズムと振動を諸体に課し、それによってより高位亜界の意識を自覚できるようにさせるのが瞑想である。人は何を食べるかは気にするが、どの波動を入れるかは全く気にしていない。それがチョコレートであれ、ワインであれ、肉であれ、口に入れるどの食事つまり物質も何らかのレベルの波動つまりエネルギーである。
別の視点から言えば、諸体からラジャスとタマスを取り除き、サットヴァだけにすることが目標である。白米よりも玄米、肉よりも野菜、ビールよりも水、このようにサットヴァだけを摂取しようと頑張っている人は多い。彼らの目標は第一イニシエーションであり、それは肉体をより高位の波動に反応させる正しい器へ変えるためのものである。人類のほとんどがこのイニシエーションをまだ受けていない。第二イニシエーションに向けて意識的に高位の栄養つまり波動を瞑想でくみこもうとしている者は稀である。それ以上はもっと稀である。ここを理解し、必然的に孤独になるであろうことを受け入れ、たとえ周囲の者に囲まれていようとも、周囲の波動から自らを保護したまま生活を送る必要がある。同調することで低位の波動と一致してはならない。高位の栄養は、最初は日に二回とか三回とか瞑想で摂ればいいだろうが、やがて24時間その高位の栄養で生きることが道になる。
肉体の食べ物よりも、魂の食べ物を意識することが瞑想生活である。舌で味わう食事は肉体のエレメンタルを喜ばせるだろうが、高位の波動は意識を喜びに変える。食べ物が美味しいのではなく、すべてが美しいという意識に変える。だからかつて、医療ミスによって肉体のある部分が二度と正常ではなくなったことを知ったとき、私はその医者を非難したり訴えたりすることなく、黙って家で瞑想した。すると周囲の者は怒り、その病院や医者に適切な処置を取るべきだと言った。気持ちは分かるが、怒りや恨みの波動に自身を落とす必要はない。私はただ瞑想し、それなりの激痛を瞑想でどうにかしようと思ったが、そのうち高位の意識に入ってしまい、痛みすら美しいと思ったものである。すべてが美しいという意識にいるなら、痛みをどうにかしようとは思えなかった。痛くていい。あるいはどっちでもいい。なにもかもが美しい。そう思え、そう感じられたのである。結果、痛みはしばらくしてなくなった。その箇所はいわば不具のままだが、医療ミスでさらに起こることが予測された事態も起きず、普通なら起きるのだが個人差があるのだろうかと医者は言うしかなかった。
これは一例である。出来事は生じるが、良い出来事や悪い出来事によって波動を乱さないことが弟子の務めであり、日々の新たな栄養学である。簡単ではないからしばしば失敗するだろうが問題ない。失敗しながら学び、低位の波動より高位の波動、徐々に自らを高みへ一致させゆかねばならない。
以上は、魂と接触するにはどうすればいいかという疑問に対する一つの答え方である。正しく生き、つまり正しい波動を食し、その正しさが当たり前になりゆくとき、意識内に魂が訪れる。彼に発見されたなら、もう引き返せない。やっぱり人間的な生き方に戻りますは通用しない。しかしながら、人間的な生き方に戻って何か得があるのだろうか。得も徳もありはしない。だからきつくても、ちょうど子供が栄養価の高い野菜をまずいと言って嫌うが親に食べさせられるように、高い波動はきついが、徐々に耐えられるおのれへと磨き上げねばならない。だからといって、長時間、高位の波動を受け続けるという愚をおかしてはならない。初心者に長時間瞑想をさせるのが愚かなのは自明である。受け止め方、受け入れ方も知らないのに、つまりエネルギーとフォースは喧嘩するだけなのだから、病気や頭痛や精神疾患になるだけである。努力と休息はセットである。苦痛を感じるようなことがあれば何であれ即時に中止し、次なる努力のために遊んだり休息すべきである。急激に成長はできず、つねに前進と後退を交互に繰り返しつつ螺旋状に進むのが成長と知り、周期の法則に翻弄されることなく、また失敗した感覚や罪悪感に関わることもなく、高位の栄養が何であるかを学んでいきたいと思うものである。