霊的責務

ある時、ぴたりと自我の活動は止むだろう。我々は、どのような自我のそれまでの動きにも完全に消極的になり、アンターカラナの構築により低位マインドが静まるときに焼き尽くす火が昇ることを知るだろう。完全な活動停止は眠りではない。「それ」は完全に目覚めた新たなる意識である。自我が停止することが、大変な素晴らしい意識を我々に蘇らせることを己で知らねばならない。それは自我の努力が終わったときにのみ可能であり、全的に自我は魂に整列する。こうして妨げるものがなくなるのである。どんな自我も知ることのできない至高の平安。私はこれを求めてこなかった。これのために瞑想をしなかった。ただ自我としての生があまりに苦痛なので真の調和を魂と共に探っていたら、それが瞑想と呼ばれるものだっただけである。なぜあらゆるものが苦痛なのか。ここに自我の抵抗を知るのである。真我ではない逆らった動きを知るのである。我々は適当な言葉が見当たらないため、エネルギーとフォースという概念でそれを説明しようとしている。正しい生命の流れがある。それは物質の見境ない暴走とは相容れぬものである。「神の名において」というのは、この真なる我において、という意味である。すべてが、それまでの自我ではなく、真我において為されるのを我々は目撃する。これのなんと素晴らしきことか。

こういう話をすると、「どんなひどい目に遭ってきたのですか」と言われることがある。外的なことで苦しんでいたのではなく、自我つまりエネルギーとフォースの衝突に苦しんでいたのである。霊と物質ということに苦しんでいたのである。物質は霊化されねばならない。正確には物質を支配している質料である。我々は瞑想していると言うが、実際は何をしているのだろうか。次の文章を理解することでより知的なアプローチが可能になるだろう。

惑星ロゴスが顕現した理由は質料とその形態をあがなうためである。…この科学を習得し終えたとき、彼らは生命の科学へと移行する。そして、特質づけられ、あがなわれ、原理にもとづくようになった質料と形態をいずれは捉えて用いるようになるエネルギーを扱えるようになる。原理に基づいていない質料をあがない、それを創造的に復活させ、霊的に統合することが、彼らの目標である。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.111

我々が諸体のフォースと言うとき、それは諸体という物質の質料のことを言っている。それに働きかけるものを我々は瞑想で見つけるのである。それは「捉えて用いるようになるエネルギー」である。しかし自我であるとき、我々は三界のフォースの奴隷であり、その我々を動かそうとする力・フォースを扱う側の力に回らねばならないのである。これらを理解するとき、悟りを求めるとか、霊的に進化するとか、真我実現とか、この種の話には全く興味も関心もなくなるだろう。そのような欲望はアストラル・フォースである……。

なぜ我々には霊的なものが感じられないのか。通常、我々つまり人間の三重の諸体が低位亜界の物質で構成されており、それらに応じた表現に甘んじかき消されているからである。瞑想を通し高位亜界の物質を諸体に組み込むことで、人間が見ることも感じることもできないものと接触できるメカニズムが整う。意識が違うということは、いわば、宿っている物質が違うのである。物質は、それ自体では何でもないが、質料に支配されている。死体がそれ自体では何でもないことからして自明である。物質に霊が宿っても、表現されるのは物質の表現である。エネルギーとフォースの違いをここに見なければならない。我々は、人間つまり肉体・アストラル体・低位メンタル体を動かしている質料つまりフォースと相対していることを片時も忘れてはならない。ただ目を瞑って何か頑張っているのが瞑想ではないのである。我々は、つねに物質の質料と関わっていることを完全に理解する必要がある。

そのとき、瞑想に日常との区別は存在できなくなるはずである。瞑想の意味が漠然として分からない場合のみ、座って行う定期的な瞑想が瞑想と呼ばれ、日常とのあいだに区別が起きる。質料つまりフォースに働きかける仕事が瞑想であることを理解しゆくならば、この世の目に見えるものを動かしている背後の力に我々は関わっていることを自覚した生き方をするだろう。結果ではなく、原因に関わっていることをよくよく熟考せねばならない。目に見えているものは全部存在していない。肉眼で見るものは何ら実在していない。肉体も、それを動かす原理が去れば、つまり死ねば、腐敗して分解され、やがて元の形は消え去る。どんな物質も現象もただの一時的な結果である。死体であれば、生前にその物質を捉えていたエネルギー、平均的な人間の場合は三界の低位亜界の物質で構成された諸体を通ったあとのエネルギーであるフォースに対し、我々は生きているうちに支配力を持たねばならないのである。それは、我々の諸体が高位亜界の物質を組み込んだ適切な霊的媒体になったとき、自在に可能になるものである。だから、瞑想の本質は、低位のものの除去、高位のものの組み込みである。この過程が完全に意識的なものになるまで、纏っているその媒体を純粋化せねばならないのである。

ここを深く理解した瞑想を知的に行うことで、以上のような文章の言わんとすることが手に取るように分るようになるだろう。今日の文章で最も重要な箇所を要約するなら、我々の仕事が質料つまりフォースに対するものであるというものである。純粋なエネルギーが、そのような原理に基づかないフォースを捉え引き上げるのである。そのためには、我々が原理に基づかないフォースに動かされていてどうするだろうか。その状態が自我である。完全にその自動人形状態に無知なまま動かされており、それを自分の行為だとみなしている状態のことである。だから、瞑想で何らかの報酬を獲得しようではないのである。それは自我に動かされている者のみが捉えられる欲望である。我々はそのような低い波動つまりフォースではない。それは我々ではない。我々はどのような力に動かされているのか。そしてその力を制するものは何なのか。ここに精通するのが、秘教徒が第三イニシエーションと呼び、平均的な人が悟りなどと呼ぶまでの道の初心者が為すべき仕事の全てである。

秘教徒はいつも質料を扱っているのであり、様々な界層を形成している生き生きとした振動する質料を扱っているのである。しかしその質料は、以前の太陽系から受け継がれたものであるため、過去の出来事に色づけられており、「すでにカルマに染まっている」のである。……秘教徒の仕事は、存在するものの「質料と形態」の側面から注目の焦点を逸らし、どのレベルであれ、形態を生み出す源になってきたものに気づくようになることである。あらゆる形態を支配している生命の特質に対する必要とされる感応力や感受性を自分自身の内に培い、最終的には、この惑星を活気づけ、その活動の中に私たちが生き、動き、存在を保っている唯一なる生命の特質に到達することが、秘教徒の仕事である。そのためには、まず最初に、自分自身を特質づけているエネルギーがどのような性質のものであるかを発見しなければならない(ここで支配する光線の性質を考慮しなければならなくなる)。このエネルギーは、三つの低位顕現体を通して表れており、後に統合されたパーソナリティーを通して表れるものである。自分自身がどのようなエネルギーに特質づけられているかを知り、特質づけられた生命様相に自分を方向づけるようになったとき、より一般的で普遍的な様相との接触の媒介になる精妙な内的メカニズムを発達させ始める。彼は自分自身の形態と全ての形態を作り上げている「原理に基づいていない」質料の特質、つまりカルマ的な素因と、そのような形態を通して表れることを望んでいる特質づけられた様々な原理を識別するようになる。付随して、次の太陽系の質料が現在の太陽系の質料よりも高い等級のものになり、結果的にロゴスの意志にもっと感応するようになるために、その形態をあがない、救い、清めるようになる。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.109
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