青い川

「川のない生活はお辛くありませんか」と女性は言った。歳は四十代。短い黒髪に黒縁の眼鏡。大学で福祉を教えているという。引っ越し先で我々が彼女と出会ったとき、最初に言われたのが「川」の話だった。このあたりは四方八方、山々は美しいのですが、身近な川はどこも枯れています。それなりの川に接するためには車を走らせる必要がありますから。どこかよい川をご存知なのだろうか。彼女は読み方が正確かどうかを知らなかったが、ある渓谷の名と、そこを流れる「青い川」への道を教えてくれた。折を見て行ってみましょう。

我々は「青い川」の話をしばらく忘れていたが、用事の帰りに渓谷の近くにさしかかった際、あのときの会話はこの道を指しているのではあるまいか、とふと思い当たることがあった。それで急遽、くねくねした山の道を上っていくことにした。途中で道がわからなくなった。男性がひとり歩いている。彼に尋ねてみようか。「この先で合っていますよ」とその男性は言った。ただし、大きな交差点の一つ前を左折であることに気をつけてください。我々はお礼を言った。そして彼の笑顔が素晴らしいことに気づき、話題になった。その笑顔は無警戒だった。

都会でこのような顔を持つ者は見かけない。このあたりは波動の高い場所で、我々が越してきて最初に気づいたのは、人々が親切かつ素朴であること、子どもたちが明るく生き生きとして笑顔であること、そして無警戒であることだった。歩いていて、知らない人に「こんにちは」と笑顔で言われる。同じマンションの子供が、「ただいまです」と笑顔で言う。どの家の人もガーデニングが趣味のようで、家という家にきれいな花々が咲き誇っている。知り合った中学校の先生――ちょうど三十くらいの女性なのだが、学校に行くのが好きだと言う。学校が好きな先生とは珍しい。子どもたちはみんないい子ですよ。不良ですか。一人もいませんよ。彼女は笑いながら言う。そういえばこの半年、柄の悪い人間を一人も見かけたことがない。人口は決して少なくないが、この町に夜の店や堕落的な娯楽の店は存在しない。警察は暇そうにしている。話しかけると友達のように丁寧で腰が低い。市役所の人間もそうだった。こういうことを話しているあいだに、「青い川」と思われる箇所、その手前にある駐車場を我々は見い出した。

一種の観光地のようだが、誰もいない。丁寧にコースを示す看板が折々にある。我々は「青い川」を脇に眺めつつ、整備された渓谷の道を一周した。子供時分には夏の遊びといえば川しかなかったことを思い起こした。川は美しい。川の音は静かだ。眺めているだけで心洗われるような気持ちになる。あの女の、親切な大学教授に次に会ったとき、その話をして聞かせた。彼女は喜んだが、申し上げにくいことですが、と心苦しそうに言った。なぜなら私が、「そこは美しかったが、青くはなかった。画像は加工されていたのだろうか」と言ったからである。「申し上げにくいことですが、その場所ではありません」と言われて驚きつつも、納得した。「あなた方は左に折れて、コースを一周されましたね。私が詳細を述べなかったことがいけなかったのですが、その手前で、右に下りる小道があるのです。ええ、その先が青い川です。なので地元の者しか知らないのです」。

目的があるとき、人はそのレールを自ら敷く、そしておのれをそのラインに自縛する。その目的地は真の目的地ではないかもしれないのである。じじつ、人間の目的とは自作の想念にほかならない。我々は「青い川」への道を教えられたが、たどり着いた川は青くなかった。途上を決して我々は調べなかった。目的地への案内は、いわば他人任せのものだった。瞑想でも、我々は同じ過ちを犯しがちである。個人的な目的を持つのである。それは教師や書物が教えた目的ではなかろうか。またそれを聞いたり読んだりした者による各々の解釈という想念に堕しているに違いない。その目的地は所有されるに値するであろうか。いかなる見聞、知識、すなわち非現在なる想念は、欲求ないしは恐怖の産物であり、人を盲にする。信仰を盲信に、また狂信にする。目的地とはその人の投影物であり、決して真理へは導かない。AからBは誤謬である。我々はすでにAであり、すでに現在であり、また目的地そのものである。しかしながら、それを知覚できないということは、真理を無効化する無知がのさばるためである。その無知とは、人間においては情緒と想念である。

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