非精神化

「今日も会社に行くのが億劫だ」は、精神で生きているときに生じる感覚的幻想である。我々の問題は、必ずしも精神で生きなければならないわけではないことを知らないことである。精神で生きることがあたかも前提であるという考えの癖は、思い込みでしかない。我々は、精神を伴わずに仕事に行くことが可能である。「会社に行くのが億劫」という感覚的想念は、想念である以上、過去の記憶に根ざしたその未来への投影がもたらすものであり、ただの精神の動きに他ならない。精神は時間に生きており、時間を作り出しており、ひとところに留まることを知らず、時間を飛び回り、あるときは過去、あるときは未来と、徹底して「現在」という光の抜け穴を見つけさせないように設計されている。我々が知るべきことは、この精神からの離脱である。精神を投げ出して構わないという驚くべき事実への開眼である。必ずしも私=精神でなくていいという大発見である。我々の問題は、精神でなくていいことを知らないことに尽きる。

「会社に行くのが億劫」は、無視していいのである。その精神で会社に行く必要はない。その精神を捨てた状態で会社に行ってもいいのである。つまり、出社から退社までを「経験」する必要が必ずしもないのである。我々が究極的に理解しなければならないことは、起きていることと自分が関係ないということである。精神で会社に行くならば、いつものように、何らかの一日をただ体験・経験するだけである。

「非武装化」の真の意味は、「非精神化」である。我々の精神は、我々を守るために不可欠な武装だと無意識に思われているが、これが人生という闘争ないしは戦争を作り上げているだけであって、決して守る機能ではない。精神は、ひとりでに問題を作り出し、その問題に対処するのが自分だという対立構図を生み出し、問題から守るのも自分だという一連の対象化つまり一連の自作自演を行う経験のための装置でしかない。その精神を置いていいと私は言っているのである。あえて我々は精神に生きているが、それを完全無視し、放棄し、武装解除し、ただ私で在るとき、そこには実際、何の対象化も問題もなく、つまり自分というストーリーが存在していないことは確かではなかだろうか。これは確認できる話である。

我々の感覚があるということは、そのまま、我々の精神があるということである。精神として生きることを放棄しなければならない。放棄してもいいことを知らねばならない。私で生きなくていいことに驚かねばならない。これらを自らの内部で確かめたとき、精神の虚構は暴かれ、それは移りゆく曇り空のようなものであり、曇っているのではなく太陽はただ隠れて見えにくかっただけであり、太陽は常に存在し輝いていたことを精神の背後に知るであろう。精神という武装を解除すればよいだけである。それが真の平和である。それが魂意識であり、厳密にはブッディ意識である。メンタル界を超えた意識である。それは、精神の背後にいま存在している。時間という精神の領域ではなく、現在という、あたりまえの今そのものに焦点を戻す訓練は役に立つかもしれない。しかし、訓練は精神が行うものである。意図や動機や結果への願望などがある。意識はたしかに我々において過去や未来にふらついているが、現在に引き戻すことは、訓練というより、ただ現在に安らぐという感覚である。現在とは精神を放棄した結果であって、精神で模索する対象ではない。難しく頭で考える癖のある人は、このあたりで挫折しがちであるから、頑張ってついてきてもらいたい。

現在とは探す対象であろうか。当たり前のことだが、すでに現在である。人々の現在は、現在という概念である。この文章の違いについて熟考すべきである。我々はすでに現在なのである。これが当たり前の状態であるが、ここに精神の影がちらつくとき、過去か未来に連れ去られるのである。沈黙の全き現在ではなく、想念の時間旅行に彷徨い出すのである。すると、見ている対象が別次元に堕ちるため、我々は精神の奴隷となり、本来は使用すべき道具であるものに逆に奴隷化され、誰が主であるかを忘れるのである。この史上最悪のマインドコントロールから抜け出すために瞑想はある。

「会社に行くのが億劫」であるとき、それをどうにかしようとするのもまた精神である。この領域に答えはない。ここで騒いだり足掻いたりしても無駄であり、一生かけても助けはこない。あまり考えすぎると精神の底なし沼に引きずりこまれるだろう。覚えておくべき重要な点を繰り返すと、我々と精神は無関係である。精神は武装解除されねばならない。我々は出社だろうが人生だろうがあらゆる恐怖に精神で対処しようとする無意識の癖をまだ持っているが、恐怖に精神で対応しようという偽の構図に気づき、精神自体を解除する必要がある。恐怖を作り出したのは精神であり、その恐怖に対処するのも精神という、一連の自作自演の罠に気づかねばならない。それらは同じものである。恐怖は精神の錯覚でしかない。守ろうとして精神を使うのではなく、むしろ精神を脱ぎ捨て、両手を挙げて白旗を表現するとき、キリスト教徒の言う「神の御心のままに」が真の意味でいきなり達成され、すなわちいきなり神が達成されるであろう。それは、完全なる無抵抗であり、完全なる精神への無関心であり、真の安全へと超越したのだから、微笑みをたたえたまま、煮るなり焼くなりである。それは、精神が私とは関係がないことを知った魂の態度である。

人生を一変させうる話をしているつもりである。しかし、この話を読んだ人の全員が精神の背後の自由に到達するわけではあるまい。つまり、どこに障害となる部分があるのだろうか。我々が書店やamazonで入手できる聖人の書物の中には書いてないことだろうが、精神を掌握するのは魂である。我々つまり精神ではない。それまでは精神に掌握されていた人間の魂が、瞑想と奉仕を通して武装解除を学んだとき、徐々に真の自己である魂を理解できるようになり、意識において、個人と魂の間で、「私」の意味が入れ替わるということが起きるようになるだろう。魂のエネルギーの伝導体である読者はいるが、諸体のフォースを魂のエネルギーに従わせようとしている最中である。ある一定ラインまで従わせたとき、魂が私になる。今日書いてきた記事のような内容を瞑想で確かめ始めることが最初である。いきなりできなくても、瞑想と奉仕に生きるならば、やがて簡単にできるようになる。精神で生きる必要がなくなる。これを我々は解放と呼んでいるのである。これを自由と言うのであり、また平和や調和と呼ぶのである。それはあたかも、西洋の絵画に描かれる子供の天使のあの天真爛漫さ、あの無邪気さ、あの喜びを知った笑みが象徴するものである。神は真の子供である。本物の無垢である。この世の赤ちゃんもそれを象徴している。ゆえに、進化とは、ある意味、真の幼児退行である。精神を知らぬゆえ、怖がらない無邪気さ、怖がらない喜びに満ちている。この域に到達というより帰ったとき、我々は生まれて初めて愛というものを知ることになるだろう。それは人間の世界で言われる情緒的な愛とは全く無関係の、神の愛のことである。輪廻転生というこの永劫とも呼ぶべき周期の果てにて、これ以上の幸福というものはないことを我々は知るであろう。

しかし、この世のまだ若い兄弟たちは、お金で自由を得られると本気で思っている。ならばお金を持ってみてください。持ったことがある者は確実に言うだろう。むしろ不幸になったと。言わない者もいるが、認めきれないだけである。なぜなら富を否定せねばならなくなるからである。己が築いたもの、信じてきたものを否定しなければならないからである。次々と欲望に自縛され、ひっきりなしに法則から外れることを余儀なくされ、苦しい辛いの地獄のごとき連続であるが、警告の意味も分からず、ヴィンテージワインを世界中から集めたり、クラシックカーを何十台と揃えたり、母親の面影を探して何十人と(自分が思う)美人を囲ったり、ありとあらゆる物質でおのが空虚を満たそうとしても、永遠に満たされぬどころか、なぜか極度に苦しいことを発見し、自己破滅へと直進し、この世で得たものはないが積んだカルマは多いという状態でアストラル界へ帰るという恥ずかしいパターンはざらである。

あるいは、権力で自由を得られると錯覚する場合も多い。総理大臣になれば、大統領になれば、あるいはそういった一種の駒ではなく、大企業を牛耳るようになれば、マスコミを動かせるようになれば、裁判所を意のままに操れれば、通貨発行権を我が物にできるならばと、権力欲にはキリがなく、どれを達成しても周りは敵だらけであり、いつ後ろから刺されるか分からず怯える生き方であり、ボディーガードとセキュリティに頼るより他に安心のない生き方であり、それらを従えて一時的な無恐怖の感覚を権力で味わうことは可能だろうが、簡単に壊れる代物であることを、やがて途方もない恐怖のさなかで悟ることになるものである。これは間違っていたと。悪いことをしてきた自覚はあっても、真に間違っていたことに気づくのは、最後の恐怖の時である。それでは遅いから戻って来いと言っているのである。これらはすべて、自分の自由ではなく他人の自由を求め戦おうとしている者にも等しく言えることである。

心美しき者幸いなり(マタイ5-8)。しかし、心を捨てる者はもっと幸いである。さらに言えば、心を捨てたとき、はじめて美しき者である。心という武装を解除する者は幸いなり。心で武装する必要がないことを知る者は幸いなり。心を超越し、魂に到達したとき、キリストの意味を知るだろう。神と、神の愛を知るだろう。それはあまりに極楽浄土である。ここにだけ自由がある。探し求めていた幸福がある。旅の終わりがある。本物の美がある。かつて「会社に行くのが億劫」と言わせた精神はどこにも見当たらないだろう。精神の武装は解除されたまま、真のオープン・マインドすなわち向かうところ敵のない愛で、分離なき神の生命の化身として、肉体を纏ったまま、愛を放射する聖なるもので在るだろう。

そしていま、我々は精神を脇に置けるであろうか。非精神化できるであろうか。できないならば、まだ魂の呼び込み方が不足しているというだけであり、引き続き、瞑想と奉仕に専念してもらいたい。この世に惑わされることなく、安心して、善と正義すなわち無私無償の愛に生きて喜んでもらいたい。すると、精神の武装化は意味をなさなくなるだろう。精神はいらなくなるだろう。もはや用済みになるだろう。それは正しい位置に戻され、自我という影を落とすことなく、神性の道具として働くようになるであろう。これが本物のニューエイジである。

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