頂きは我が内に

何もしなければ真我である。ところが自我は、「何もしないでおこう」と言うのである。それは試みであり、何もしないでいることで得られる何かを期待する行為である。常に駆り立てられている、自我の活動の一環である。

ないものを得るという過程、これは苦痛である。手に入れたいものがあることは苦痛である。錯覚に生き、分離や個人を真実と見なす精神であれば、それはあらゆる架空の惨事に巻き込まれに行くだろう。

何もしない状態、自我が何もできない状態を教えるのは魂である。外の仮象ではなく、内なる臨在に言葉なき至福の充足を教えるのは魂である。自我は個人の希望にしがみつき、未来に達成を夢見て、時間方程式にならい、実を結ぶ努力というドラマを喜ぶ。自分としての船出が愛おしい。荒波を乗り越える自分。座礁し、危機や諦めに絶望する自分。生きて帰ってもなお、彼は挑戦するであろう。航海なくして彼は人生を送れないのである。まさに、人生は舞台である。

挑戦や達成。これをひたすら求めてやまないあらゆる精神の登山家たち。未踏を喜び、山々にとりつかれた自分を喜び、緻密な計画に胸踊らせ、命がけの決意で登攀が始まるも、やがて自然の驚異に身震いし、コントロールするのは我々ではなく山だと思い知らされ、あらゆる寒さに心身を損傷し、慣れぬ高度に苦行を耐え忍び、しかし些細なミスで滑落し、命からがら逃げ帰るも、意識が戻ればすぐに再挑戦を考え出す。引き留める家族。しかし俺はゆかねばならないと彼は言う。笑ってはならない。自分のことになると人はこうなるのである。これは瞑想の話である。

こういう自作の芝居を遠目に見る精神、我々の言う自分を含め、人生やカルマや運命など、いずれも関係がないという態度を自動でとらせる融合の感覚、それはすべてを寄せ付けない。瞑想は苦行でも修行でも挑戦でもない。そう思いたいのは自我だけである。自我が自分だから、その考えを譲らないのである。「ならどうすればいいのか」「真我が分からないから方法を求めているのが分からないのか」と自我は言う。彼らは、自分の脳内でありもしない目標を作り上げて、ないから到達できず、もがくのである。

どうしても、自我としての獲得を諦められない生命力がある。それを我々は欲望と呼んでいる。欲望であるあなたが失敗の原因である。あなたが自我である。それは存在していない。霊的な目標というものもまた、誤って解釈された生命力が志願させた終わりなき船路であり、頂きのない登攀である。マインドの中の、架空の物語だからである。個人的な努力をしたければするだろう。自由である。しかし真我とは関係がないことを理解するように。自我崇拝から自由であってほしい。この者と関わってはならない。彼の名が悪魔である。

真我を知るならば、感傷からではない涙を知るだろう。一切のゆるし、一切の自由、あらゆる有限の撤廃を慈悲と愛の中に知り、完全という美の喜びに満ちあふれるだろう。すべての恩と感謝は唯一なる真我へ捧げられるためにある。兄弟姉妹をここに連れ帰りたい。人類の苦しみは、我々にとって絶え間ない苦痛である。錯覚から自由へと、強引にでも引きずり込みたい。見えない目を見えるようにし、物質に苦しむ精神に魂を知覚させたい。肉体でわざわざ生きている理由は、もはやその望みによってのみである。それは真我の欲望であり、愛そのものの祈願であり、我々はそのエネルギーを意志と呼んでいる。

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